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    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

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2009/05/16(Sat)

(No.2) 経営において数字(財)は“末”、徳(人間性)が“本”

 経営の数字は常に変化し瞬間的で、経営の永続を保障するものではありません。
それに比べて『』は、磨けば磨くほど永続的に積み上がっていきます。

  社長が徳を磨くと社内外にその徳が広がり、好循環の経営ができます。
徳を無視した数字第一の経営は、破綻に向かいます。

  経営を樹木に例えると、、数字は枝や花や実と言えるでしょう。
根をしっかり張っていけば安定した樹木(経営)になります。

  私たちも企業を診るときは、数字よりも社長の人間性を重視します。
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2009/05/23(Sat)

(No.3) 人間最高の目標は『徳』を養うことである (孔子) (『徳』について、前回のつづき)

  まず、『』とはどういう意味を表しているのでしょうか。
 
①修養によって身についた善行など人間の良い行いのもととなるもの。②人格が優れ行いが良いこと。③良い行いが出来る性格、身に付いた品性。④人を感化する人格の力。
などがその意味を表しています。人間として、すばらしい状態を指しています。

  孔子は、そこに至るために仁者たれと教えています。

 『(ジン)』とは『人』の右に『二』と書き、二人の間に通じる心の意で一体感のこと、又、出会いを大切にし愛する心を持つという意味を示しています。
要は、相手を思いやる温かい心を持てということです。
 
  仁の道は、なかなか難しいとも論じています。その一方で、求めようと強く決心すれば仁はやってくるもの、要するに本人の決心、『』次第ですと結んでいます。
 
 最後に『徳は孤ならず必ず隣あり』(論語、里仁)を紹介します。これは、徳のある者は孤立することがなく、必ず共鳴する人が現れるものですとの教えです。社内・社外各方面に共時性が働き好循環の結果につながっていくものです
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2009/06/05(Fri)

(No.5) まず、足元から。~下坐行(げざぎょう)のすすめ~

 『足元の紙屑一つ拾えぬ程度の人間に何ができましょう。足元の紙屑を拾うのは下坐行の第一歩です』(国民教育の師父 “森 信三”氏の言葉)。という文字は、『土』の上に二人の『人』が並んでいます。上下関係ではなく、対等関係を意味しています。

 俺はトップだから、と上から大言壮語してはいけません。まず、足元の簡単なことでも良いですから実践してみて下さい。きっと、自分も周りも良い方向に変わって行きます。それが出来て初めて経営者の仕事が待っているんです。

 そうすれば共鳴する人が現れ、一燈が二燈になり、二燈が三燈になり、良循環して内に外にと広がって行くのです。経営の成果につながって行くのです。そのわけは、人間の営みの中で一番至難なことである人の魂が育って行くからです。

 社員を研修会に参加させることも良いでしょうが、トップ自らの下坐行こそ最も効果的で根本的な社員教育につながると思います。『経営者は優れた教育者たれ』 のことばは、心に響く戒めであり箴言(しんげん)であります。

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2009/06/13(Sat)

(No.6) 二流のリーダーは金儲けをし、一流のリーダーは人儲けをする。(石川 洋)

  松下幸之助氏は『物をつくる前に人をつくれ』と言っています。同じ意味だと思います。
経営とは人が行い、人を対象とした営みです。人をないがしろにした経営はいつかは行き詰まるでしょう。儲かってはいるが、人材を育てようとしていない企業は要注意企業と私たちは考えています。

 『どこまでも、まず、人間をつくれ。それから後が経営であり事業である』と中村天風氏も言っていますが、経営の本質を突いていると言えるでしょう。

 古い話では、 『玉、琢かざれば器とならず。人、学ばざれば道(真理)を知らず』(礼記)のように、自分自身や社員を琢く努力の大切さを教えています。

 金儲けを否定するわけではありませんが、経営の重心に『人づくり』も加えてみては如何でしょうか。
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2009/06/27(Sat)

(No.8) 鉄はサビによって鉄を失う

  『鉄はサビによって鉄を失う。人は傲によって自分を崩す。よってみがく努力を忘れてはならない』との言葉があります。また、『職人さん達は、命の刃物を研ぎ続ける。人間も心の尖端を研ぎ続ける』との教えもあります。

  人も必ず切れなくなる時が来ます。よって、心を研ぐための道具“砥石”がどうしても必要なんですね。『俺は研がずとも大丈夫』とうそぶく人も、まだ気付かない人もいますが・・・・。
 
 つまり、良い砥石を持たねばならないとの戒めであります。

 良い“砥石”を持つということは、畏友(尊敬できる友人)、真の師、聖賢の書物などを持っていることです。

  人は、逆境、苦境、壁に阻まれた時などに、初めてその大切さに気付くものです。
早速、あなたの砥石を持つことに致しましょう。

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2009/07/04(Sat)

(NO.9) 縦の工夫と横の工夫 ~自己を深く掘り下げよ~

 人としての力をつける方向性には、横に拡げるベクトルと縦に深めるベクトルの両方があります。

  “横の工夫”とは、読書で書物を読み広い知識を得たり吸収することです。
これは浅くて自分のものとはならず、深みがないため、外にこぼれ出てしまいやすいものです。
ちなみに本を100冊、1000冊読むだけでは不十分です。

 これだけでは、人生も好転しないものです。総称して“時務学”と呼びます。知識、技術、テクニック、能力、才能という言葉で表現されます。秀才にはこのタイプが多いようです。

  次に“縦の工夫”について、自己を精神的に鍛える、また、内面的に深く掘り下げることです。人格をつくり、人生観、世界観、死生観を確立したりすることです

 知識とは違い、見識・胆識をみがくことになります。総じて、“人間学”と呼ばれます。『修己修身』(人間の基礎の部分)『修己治人』(リーダー学の基礎)天命・使命観などに連なっていきます。

  この“縦の工夫”を怠ると人生を取りこぼしてしまうと云われています。どちらも大事なベクトル(方向性)です。どちらかに片寄っては決していけません。現在は、あまりにも“横の工夫”のみに力点が置かれていることを私たちは危惧しています。縦横のバランスが大切なんです。

 ちなみに“経営学”は“横の工夫”であります。
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2009/08/08(Sat)

(No.14) 松下幸之助氏の人間観とは (前回のつづき) 

  松下幸之助氏の人間観とはどんな人間観なのでしょうか。人間をどのような存在と認識することが大切なのでしょうか。

  彼は生来あまり丈夫な身体ではありませんでした。独立しても病気がちで寝たり起きたりの半病人の様な状態でした。仕方なく部下に仕事を任せて代行してもらう事が多かったのです。しかも、任せ方は中途半端ではなく、『大事なことだけ相談してくれ。あとは君がいいと思う様にやってほしい』と思いきって任せざるを得ませんでした。

 また、任された方は『病気で寝ているのだから自分がしっかりやらなければならない』と大いに発奮し十二分な力を発揮しました。しかも、燃える部下達が一つの目標に向かって協力する事で“1+1”が“3”にも“4”にもなるという結果を見ると感慨にひたる事が多くあったと言い伝えられています。

  人間観のまとめとして、彼は次の様に語っています。

 『そんな経験をしていくと人間とは偉大なもので、能力や可能性には限りはなのではないかと思う様になったのです。人間はダイヤモンドの原石の様な性質を持っています。つまり、元々美しく輝く本質を持っているが、磨かなければ光輝くことはありません。

 まず、“人間は磨けば光る”という本質に気付き、一所懸命に磨き上げていく。そこで初めて美しいダイヤモンドの輝きを手に入れることが出来るのです』と語っています。

  『人間はダイヤモンドである』それが彼の人間観のベースでありました。私たちも賛同している人間観です。

  『玉、磨かざれば器とならず。人、学ばざれば道(真理)を知らず』(礼記
 (当コラムNo.6掲載)と同じ意味で同じ人間観であります。

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2009/08/15(Sat)

(No.15) 目先のこと自分のことばかりでは必ず行き詰る (松下幸之助)

  『人間が行き詰まる時は、どういう時か分かりますか?』と問いかけています。


人間は自分さえ、目先さえ良ければいいとなったら、必ず行き詰まります
それは真理に反しているからです。“天地自然の理や宇宙の哲理”に反したことをすれば必ず滅びます』と。

  さらに詳しく
『人間は、大きな時間の流れに沿って今日があり、未来につなげていく大きな流れの中で生きています。なのに“目先さえ良ければ”と考えるのは真理に反しています』。


『そして、人間は人と人とのつながりの中で生きています。にも拘わらず、自分のことしか考えないならば、これも当然、真理に反しています。よって、真理に反したら必ず行き詰まります。』
と言っています。

  確かに人間は苦しくなってくると、どうしても目先のことしか考えられない。とても人のことを考える余裕がなくなり、自分のことだけ・・・。そして人は行き詰まり、経営者であれば、会社を倒産させるのです。

  行き詰まらないためには、“先々のことや皆のことを考えなくてはいけない、と教えているのです。政治でも経営でも同じことだと思います。単に目先のこと自分のことだけの考え・主義では『永続は難しい』という事なんですね。真理に反したら、やはり行き詰まるんですね。


 最後にまとめとして彼の箴言をご紹介します。
指導者は天地自然の理を知り、これに従うことが大切である』と結んでいます。

参照: 真理とは、どんな場合にも当てはまる永遠不変の価値や道理のことです。

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2009/09/05(Sat)

(No.18) 人間は哲学の泥棒にならないといけない (孔子と安岡正篤)

  『孔子は述べて作らず』(述而第七)の有名な語句を紹介します。
孔子は古人・聖賢の残した教えを述べて伝えるだけで、自分自身で新しい説を作っている訳ではありませんと言っています。
 
 私も当コラムを毎週執筆していますが、多くの先達の話や古典の中から深く感銘を受けたことを形にしてお伝しているだけであります。

  また、『子曰く我は生まれながらにして之を知る者にあらず。古(いにしえ:聖賢の書)を好み、敏にして以て之を求めたる者なり』と語っています。

 自分は努力もせずに色んな知識に通じているのではない。聖賢の書を絶えず吸収しようと努力したから通じて行ったんだと。生まれつき知っていたのではない。自分が苦境を体験して苦しかったから、乗り越えるため何かを学ぼう学ぼうと求めていたから身についていったんだと言っています。

 続けて孔子は、『敏なれば則(すなわ)ち功(こう)あり』(陽貨第十七)とも言っています。つまり、敏の人は必ず成果が表れてくると言っています。言葉・書物・機会・人との出会いなど『自分を向上させる全てに敏であれ』と教えています。『敏にしてかつ求める』事がキーポイントなんですね。

 経営に置き換えて考えると、『明確なビジョンや理念あるいは目的があり、組織として求め、強烈な達成意欲がある』状態と言えるでしょう。このような状態では、不思議に必要な情報が集まり、価値ある出会いが起こることを、私たちは経験しています。

  孔子から転じて、私淑する安岡正篤氏は、『人間は哲学の泥棒にならないといけない』と言われました。

 他人の文章や言葉を自分の骨髄にして自分のものとする。自分の信念にまで高めて行く、そして自分の人間性を一歩ずつ高めて行く、これが学ぶ真の姿勢であり多いに実践・活学せよと教えておられます。

 哲学の泥棒は相手に損害を与えませんから、恥ずかしいことではないとも師は言われています。それ以来、私は、安岡先生や聖人賢人の哲学を泥棒させて頂き実践で活学させて頂いています。

  二人の師は表現は違っても同じ事を教えておられます。『敏にしてかつ求める』このような経営者が増えることを私たちは望んでいます。

(参考) 哲学とは自分自身の経験などから築きあげた人生観や世界観のこと。

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2009/10/10(Sat)

(No.23) “志のある人”と“志のない人”の違いは何か?  (道元禅師)

  道元禅師と弟子との有名な問答をご紹介します。

弟子: 「人間になぜ成功する人と、しない人がいるのですか?」
道元: 「教えてもよいが、一度自分でよく考えてみなさい」
弟子: 「昨晩考えてみましたが、やはり分かりません。教えて下さい」
道元: 「それなら教えよう。成功する人は努力する。成功しない人は努力しない。その差だ」
弟子: 「昨日は分かったつもりになって帰りましたが疑問が生じて、どうして努力する人としない人がいるのでしょうか?」
道元: 「努力する人間にはがある。しない人間には志がない。その差である」
  再度次の日、四度目の質問に出向いた。
弟子: 「昨日は先生の教えに大いに感嘆して喜んで家路につきましたが、昨夜またまた疑問が湧きました。人間にどうして志がある人とない人が生じるのですか?」
道元: 「志のある人は人間は必ず死ということを知っている。志のない人は人間は必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差である」  との問答です。
 

 この逸話は「成功する人、しない人のわかれ道は何なのか?」という疑問から始まり、努力する人としない人 → がある人とない人 → 人間は必ず死ことを知っている人と知らない人 と理路整然と問答を続けています。

  私はこの問答を初めて知ったとき、心が強く動かされたのを今でも覚えています。「志」という言葉は古典の中に頻繁に出てきます。「易経」には「すべては志からはじまる」と何度も書かれています。それ程、仕事や経営や人生の中では重要なキーワードであります。
 
 しかし何となく、わかったつもりでいた私が、この道元の逸話にふれて、ハッとその本質に気付かされ、心のわだかまりがスーッと解けたのを鮮明に記憶しています。

 やはり我々人間は「人生は二度なし」「一回限りの命」「人間は必ず死ぬ」という寸言を魂から身につけ、見識として、また信念として自分のものにしなければいけないのだと思っています。
 
 単に知識として理解し「人生は長いものだし、いつまでも、このまま生きていけるさ」程度では、「志」を確固たるものにはできないと思います。
 
 精進するか怠けるかは「」が切実かどうかの違いによります。「志」が切実でないのは、人間は「無常」(常でない、一定でない、変化する、死ぬ の意)を思わないからです
 
 人は皆、刻々と死に向かって生きています。 こうして生きている時間を大切にして、自分を磨いていかなければならないのです。 心したいものであります。自戒を込めて。

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2009/10/17(Sat)

(No.24) 知識と知恵はどちらが重要なのか?

  我々の生活や仕事においては知恵の方が重要な意味をもっています。
その人がどこまで「先の見通し」がきくか否かが尺度の根本になります。

 辞書や百科事典では知識は得られますが、「先の見通し」には役に立ちません。
学校でいろんな事柄を教わっても、そのままでは、この実人生を生きてゆく上には、人々が考えている程には役立たないという事です。
 
  「知識」と呼ばれるものと生きた「知恵」とは別ものであります。

 では、知識と知恵はどの様に違うのかを考えてみます。

 知識とは原理や理論を学ぶもの、記憶されるもので内容であり、また蓄積が可能であり、受身的であります
一方、知恵とは応用や実践で出すもの、使うもので、方法であり判断されるもので、能動的であります

  次に、知恵を出すにはどのような条件が必要なのでしょうか?次の4条件が必要です。

① 競争環境があること。

② 資源不足や不足感・不安感をもっていること。(人物金が充分でなく不足している状態、
現状に満足してない思いや感情、将来が危ぶまれるとの思い)

③ 問題意識(現状を何とかしたい、何とかしなくちゃの意識)

④ 適切な思考方法 「思考の四原則」(コラム№22掲載)をご参照下さい。

以上の4つの条件です。 私たちは、特に「思考の四原則」を日頃の仕事の中で重要視しています。

  人間の大脳は追い込まれた時しか本気にならない№10 で述べましたが①②③の条件は、追い込まれた時の状態と同じです。特に知恵とは生まれつきのものではなく、④の思考方法を変えることによって体得ができるのです。是非とも身に付け、自分のものとして下さい。

  繰り返しになりますが、知恵とは学歴や知識とは無関係であることを心にとめておくことです

 最後に、知恵の働きと役割について考察します。次の4つに集約しました。

① 見通しがきくこと。(根本的働きです)

② 潮時を知って誤らないこと。タイミングです。遅くても早くてもだめ。時機の遅速の判断を間違わないことです。学校では一切学べません。

③ 手の打ち方(打ち手) 見通しOK、潮時OKでミスしなくても、手の打ち方・やり方を誤っただけで失敗することがあります。もう一つ知恵が足らなかったからです。例えば独立や新事業など失敗例は多いものです。

④ ものの程度や加減を知ること。身の丈を知ることです。仕入の量・借入額の多寡(たか)・投資額の大小などです。物だけでなく人相手・対人的な事柄は特に難しいので注意を要します。ものの言い方一つで相手を傷つけたり誤解されたりとデリケートです。知識の他に体験と知恵が要求されます。

 以上4つに絞りましたが、生きた知恵の働きが、いかに重要な役割を占めるかの解説を示しました。
知識も大切でありますが、毎日の実生活や経営をうまく進めていくには、それ以上に知恵が必要であるという事であります。

 「知識教育より知恵教育が重要」という教訓です。

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2009/10/31(Sat)

(No.26) 「人間学」と「経営学」は車の両輪どちらが欠けても前に進めない

私:  社長はこの頃、中国の古典といわれる書物をじっくり読まれている様ですが、何かきっかけがあられたんですか?
また、社長の言動を以前と比べてみますと、どっしりと落ち着かれて右往左往しておられず、何か自信めいたものを感じますが ・・・・?

社長:   あなたから勧められたのがきっかけでした。一冊読んでみると、やはり「人間学」(人間の本質を探求する学問)というものを一度も勉強していなかった自分がわかったんです。ただ、経営に関する知識や技術・テクニックが中心の勉強ばかりで、「人間学」を学んでみて、経営者としてではなく、人間としてまだまだ学ぶべきことが沢山あることがわかったんです。

  松下幸之助氏や稲盛和夫氏の勉強もして見ましたが、やはり、言われていること、教えられていることがお二人とも同じことをおっしゃっているんですね。 もっと早く気が付けばよかったと反省ばかりです。

 順調に推移している時は謙虚さが足りず、過去や現在の成功した方々の歴史や考え方に学ぶことが非常に大事だという点に気付かなかったんです。傲慢でした。自信過剰になっていました。恥ずかしい限りです。

  社長である前に人間。経営者は人間であり、経営全般すべて人間が営み人間のことばかりなんですね。事業が苦境に陥り、行き詰ってハット気付かされました。

  私は「人間学」という学問があることも知らず、「経営学」さえ学んで力を付ければ経営は安泰でうまく行くものと信じていました。それが落とし穴でした。この年50才を越えて初めて気付きました。もっともっと学んで人間として根を深く掘り下げないと、上にも伸びていけないと悟りました。
 
 学問すると人間性も良い方向に変わるんですね。あなたのアドバイスがきっかけです。有難く嬉しい限りです。

私:  いいえ、そんなことはありません。社長の実践努力の結果です。「敏にしてかつ求めた」からです。(No18参照)

〔補足〕   経営とは人間を対象とした営みであるために、どうしても人間がわからないとうまく進展しないものです。人間がわからないと、人の上に立てないということです。統率することすら難しく、また、組織や企業を引っぱって行き、社会的信用を継続し業績を出し、多勢を養っていくのは至難の技なのです。従って、経営者は繰り返し、人間の本質をしっかり探究する必要があるのです

 「経営学」だけでは、経営の仕事は短期的やある期間だけは推進できるのですが、中長期的に長くとらえれば、継続・永続的に維持成長させるには力不足なんです。
 
 今回のテーマの「人間学」」を身につける必要性が、社長全ての方々に言えるのです。将来、後悔なさらない為に早期のうちから「経営学」と共に「人間学」にふれて頂きたいと念じております。「後悔先に立たず」です。

  「人間学」については、別な機会であらためて触れたいと思います。

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2009/11/14(Sat)

(No.28) 仕事をする際の心構え

 仕事をする時の基本的な心構えについて考えてみましょう。二つに絞って考えてみました。

  一つは、仕事は自分が選んでしている様だがそうではないという事です。

 “色んな縁がある中でたまたま自分が、自社がさせて頂いているのである”との考え方です。自分ではなく他の人でも良かった仕事を、めぐり合わせの中で自分がさせてもらっているのであると考える事です。

  この考え方は、一般にはなかなかできない考え方であります。現代の複雑な成熟社会の世の中で、過当競争が激しく、オーバーカンパニーの状態で私でなくても我社でなくても、仕事を引き受ける人は沢山いるのです。

 仕事とは、お金を稼ぐという意味はどこにもありません。二つの文字は共に仕(つか)える、事(つか)えると読むことができ、何かに仕えるのが仕事の本来の意義であります。「(こと)」に「お仕えする」と書きます。何にお仕えするかというと、喜ばれる事」、「役に立つ事」に「お仕えすることなんです。

  要するに、仕え切る心で臨まなければ、表面ばかりで、目先の処理に終始して、いつまでも自分が何者なのか自分の本質の役割は見えてこないんです。

 次に二つ目です。世の中は、高度で充分な能力を備えている人達だけが仕事をしているのではないのです。自分はたまたま仕事をさせて頂いてはいるのだが、自分は能力が乏しいだけに、させて頂く仕事には一所懸命に又、一心不乱に打ち込まなければならないということであります。

 中途半端な姿勢や心構えでやっていたら、何十年やろうと、人はその仕事から何にも得ることはできないと思って下さい。

 仕事に対する姿勢をまとめますと、縁あってたまたまさせて頂いてるので、喜ばれる様に徹底してお仕えする、仕え切ること、又、能力のいかんに拘わらず一心不乱に打ち込むことと整理できます。この二点に徹しきることが心構えとして重要だと考えています。

  現在は働く人は、大いなる恵みばかりを期待し、要求し、あれもだめ、これもだめ、ああでもない、こうでもない、上司や経営陣の、ひどい人はお客様の悪口や批判ばかりを口にして、目先や自分の損得ばかりを追いかけて生きています。

  ここで先賢の箴言(しんげん)を三つ紹介します。

  ① 「どんな仕事でも、それに徹すれば、その仕事を中心に無限といっていい程、
    広がっていくものだ
」 (松下 幸之助氏

  ② 「ある一事を通してものの深さを知ることができれば、その目や頭で万事を考える
    ようになる。そして、その真実に近づけるのである」
 (平沢 興氏

  ③ 「どんな一事、一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいていき、
    ついには宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ
」 (安岡 正篤氏

三人の言葉は共通しています。

  最後にまとめますと、仕事と人生は別ものではなく、一対、一体で切り離すことができないものです。充実した仕事が充実した人生を創るのであります。仕事を通して得た悟りは、人生を深める道でもあることを先賢は教えてくれてます。

 福沢諭吉氏の言葉が浮かんできます。
世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことです。世の中で一番淋しいことは、する仕事がないことです」と。

 仕事に対する心構えを今一度、振り返ってみましょう。お互いに。
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2009/12/05(Sat)

(No.31) 人間には二つの誕生日が必要

」について“肉体の誕生”と“魂の誕生”(志を立てる)という点から考えてみたいと思います。

  まず“肉体の誕生”について。誰でもオギャーと赤ちゃんとして生を授かります。勿論“肉体の親”は父と母の両親です。 この地上で我々は“第一の誕生”を得ます。約20年かけて子供から大人まで肉体は成長を続けて行きます。

 では次に人生の中で“第二の誕生”である“魂の誕生”について考えてみます。
我々の“魂の親”は一体誰なんでしょうか? それは“真の師”だと思います。真師にめぐり逢うことによって、人は人生を考えそこから自然と“志”が芽生えます。初めて、“魂の生誕”を得るとも言えるでしょう。

 “魂の誕生”つまり“志を立てる”ことは、人生にとって非常に大切な“第二の誕生日”を迎えることになるのです。あなたの“第二の誕生日”はいつだったでしょうか?

 私淑(ししゅく)する安岡正篤師も同様なことを述べておられます。
「我々に親のないことは避けられぬ不幸であります。しかし、師友のないことは不幸の上に不徳ではないでしょうか。我々は組織のリーダーとして、指導者として、何人か何十人か、いやもっと多くの人々の師友でなければならないのであります。将来を担う若い人々の魂の親にならないといけません」と。

 また師は、吉田松陰の「士規七則」の中の一節である、「徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居(い)る、君子交遊を慎む」を典拠に「師友会」を創られました。その後全国に広がりました。

 また、「人は師あり友ありて初めて能(よ)く自己を知り、自己を造ることができるのです。師なく友なくして世に誠の事業もないと信じます。人は魂の親である師友を現世には勿論、之を古人にも求めて学ばなければなりません」と教えられてます。

 経営や事業を成す者にとって、師や友に私淑したり親炙(しんしゃ)することがいかに重要なことかを示唆しておられます。
 
 結論として繰り返しますが、“魂の誕生”を成すためには、師友の存在は欠かせないものなのであります。
皆さんの魂の親は、はたしてどなたでしょうか?
また、皆さんは誰かの魂の親にならなければならない人達なのです。人生はずっとずっと巡っていくのです。

〔補足〕
 安岡正篤師が、「徳を成し厚くし才能を磨くには、師の恩や友人の益によるところが大きい。それ故、君子(社長・トップ・リーダー)は人との交際を慎重にする」という文章考え方に触発されて「師友会」を立ち上げられ、世の中のリーダーの育成に尽力なされました。

 それと同じ様に私たちも安岡先生の思想と実践に共感して「長崎を元気にしたい。その為に何かのお役に立ちたい。将来の有為なるリーダーを育てなければならない」と決意しております。
 
 私たちが行なっている研究会、勉強会を通して企業の方々と一緒になって長崎を盛りたてて行きたいと念じております。私たちの“志”に共感していただければ嬉しいと思います。
経営者の方々と共に一体感を共有して、雇用の拡大など地域社会の発展にお役に立ちたいと考えているのです。

 一人一人の力には限界があります。多くの力を結集できれば不可能はないと信じています。力を合わせて地域発展を推進して行きましょう。将来を担う若い人々の“魂の親”にならなければなりません。お互いがお互いの師友になりましょう。自立の段階ではまだ最も高いレベルではありません。私たちが自分の努力と他人の努力を引き合わせれば、最大の成果を出せるという“相互協力”さらには“共存共栄”の概念が最高レベルであります。
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2009/12/11(Fri)

(No.32) 「絶対最善観」とはどの様な考え方なのか? (№27と関連)

 「我が身に降りかかってくる一切の出来事は自分にとっては、“絶対必然”であると共に、また、この私にとって実に“絶対最善”である」という考え方であります。

  そもそも、この「最善観」という言葉は訳語(やくご)であり、西洋の言葉では「オプティミズム」と言います。通常はこれを「楽天観」とか、「楽天主義」と訳するのが普通ですが、哲学のほうでは、これを「最善観」と言うのが一般的になってます。
 
 元来この言葉は、ライプニッツという哲学者の唱えた有名な説であります。
この「絶対必然」で「絶対最善」であるとの考え方は、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を恨まず、否、恨んだり咎(とが)めないばかりか、『楽天知命、故に憂えず』(易経)と同じ考え方で“天命を信じるが故に、天命を楽しむ(その心構えができた時に人の憂いはなくなりますよの意)”という境地のことであります。(体感するには難しいかも知れませんが・・・・)。

  しかしながら、この考え方を我が身に受け入れ自分の生活の一切をこの根本的信念によって対処していく事になると、それは決して容易なことではないと思います。 もし、道理だとしても、この考え方を「なるほど」とうなずくということ自体がすでに難問と言えるでしょう。

  では、なぜこの道理は容易にうなずきにくいのかと言うと、それは物事には全て裏と表があるからです。言い換えれば日向(ひなた)と日陰があるのです。

  人間というものは、とかく自分の好きな方や欲する方に執着して、他の半面は忘れやすいのです。冬は日向がよいと思い、夏になると日向はごめんだ日陰がよいと考えるものです。

  ところで、我々人間は自分が順調に日を送っている間は、とかく調子に乗って人の情けとか他人の苦しみなどという様な事には気付きにくいものです。

  そこで、人間は順調という事は表面上からは、いかにも結構の様ですが、実はそれだけ人間がせまくなり見識が拡がらず、精神的にも逞(たくま)しくならず、弱く・軽くなりつつあるということなのです。 つまり、表面上のプラスに対して裏面にはちゃんとマイナスがくっついているという事なのです。プラスとマイナスは表裏一体の関係なのです。

  同様に表面がマイナスであれば裏面には必ずプラスがついているのです。
ただ、悲しいことに我々には自分でそうとはなかなか気付かないで、表面のマイナスばかりに気を取られがちなものであります。

 そして、裏面に秘められているプラスの意味が分からないのです。そこで、いよいよ嘆き悲しんで、ついには自暴自棄にもなるのです。

  要するに、人生万事、プラスがあれば必ず裏にはマイナスがあり、表にマイナスが出れば裏にはプラスがあるという訳です。さらに考えると、“プラス・マイナス ゼロ”であり、人生や世の中は公平そのもとも考えられます。

  ただ、我々人間がそのように意識しないために、表面が順調・順境であれば得意になって、自ら何かを失いつつあることに気付かず、逆に表面が逆境・苦境なものには、その底に深き真実の力を与えられつつあることに気付かないで、いたずらに嘆き悲しみ、果ては自信喪失にもなるのです。

  自分にとってあらゆる事柄や出来事は、禍福に拘わらず「絶対必然」であり(その理由は因果の法則が働いているからです)、かつ「絶対最善」であるという「人生観」について述べてみました。このことは、経営に置き換えても全く通じる哲学であります。

 No27コラムの「経営者の運命を良くする7ヶ条」の中の一つであります。 (経営コラム№27参照)
ちなみに、松下幸之助氏は「大楽天主義者」と言われています。
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2010/02/12(Fri)

(No.41) 指導者は見識と胆識を育てよ (安岡正篤)

  現在の日本を覆う、凄まじいばかりの価値観の崩壊や心の荒廃は、人間の精神形成よりも、頭でっかちな知識主義に価値を置いた結果であると言っても過言ではありません。
 
 私達は従来、科学的で合理的な欧米風の知識主義こそが大切だとして、日本の精神や伝統・文化を古いものとして軽視して来ました。その中で、特に軽視されたのが、人間の“精神(心の)形成”の大切さであります。
 
 では、“精神の形成”にとって大切なものは何でしょうか?

  私淑する安岡正篤師は、「見識」と、それに基づいた行動を支える「胆識」をあげておられます。「知識」はそれ自体では何の役にも立たない。 頭の中に、いくら豊富な知識を持っていても、それだけでは人間の形成にならない。 「知識」を自分の心身の血肉としなければならない。 そこから得られるものが「見識」であると、師は教えられています。

  例えば、ある問題について沢山の知識を持った人が解答を出したとしても、それはあくまでも知識上の解決であります。問題を現実的に解決するには、判断力と行動力が求められます。 それには人格や体験、あるいは、そこから体得したものが必要であります。 これが「見識」であります。つまり「見識」とは、思慮・分別・判断ができるもので、単なる「知識」では、出てこないものです

 さらに「見識」をもって、果断に問題の解決に立ち向かうためには、「胆識」が必要であります。「胆識」とは、自分の心と体から発揮される力であります。この「胆識」がなければ、優れた「見識」を持っていても問題解決に対しては優柔不断な対応と結果に終ってしまいます

 この「見識」や「胆識」を育てるには、常日頃から、自分が目指すべき理想や目標を持っていること、つまり「」をしっかりと抱いていることが大切であります

 この「志」を一時的にではなく、永続的に保つこと、それが「」であり、「志操」を持てということであります。この様に「志操」を持ちながらも、問題に当っては、物事に筋・節を通すことが又、大切であります。それが「節操」であると教えられています。

  まとめとして整理しますと、知識主義ではなく、心身を通した「見識」と、それを支える「胆識」を鍛え、さらに「志操」と「節操」を持つことが、人間形成には欠かせないと、安岡師は強調され教訓を我々に残されています。

 「志操」と「節操」又、一段と難しい段階があるのですね。 人間の“精神形成”には、この様に数段階の過程があり、簡単にはいかない様です。

  今日の話しを、皆様の日頃の経営実務に当てはめて考えてみましょう。 経営者として、判断して意志決定する時や、決定後の行動している姿など想像されながら読まれますと、「なるほどそうだ。そうか、あの事のことだ」など、次々と過去の事例が浮かんで来ると思われます。

 本日の話しは、お互いに日頃、努力したい、“精神の形成”という、大事なテーマであることでしょう。活学を!!

〔整理〕
  「知識」→「知恵」の形成→「見識」→「志」を立てる・「志操」をもつ→「節操」をもつ→「胆識」→「決断と行動」の展開→繰り返し続け身に付ける→経営で活学する→成果を出す の10ステップです。

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2010/03/06(Sat)

(No.44) 「五常の道」を経営に活用せよ -その1-

  「五常の道」とは“人間として守るべき、また実践すべき徳目”のことです。 まずはリーダー・指導者・経営者たる人間が是非とも備えるべき「5つの徳目」のことであります。 「徳(人間性」という基礎を固めてから「才(知識や技能」を運用することが大切で、順序があり「徳」と「才」のバランスが大切なのです。逆らうといつか必ず支障が出て、行き詰まってしまいます。

 まず、己を修め養ってから、次に人や部下を治める、また統率し経営することが重要になります。 有名な「修己治人」の教えです。 素直な気持ちでルールや「道」を知って実践する時に「徳」となります。「」とは行動を伴うもので、合わせて「道徳」と言います。

 そもそも、成人学(人と成る学・立派な人間、社会人になる学)は、「人間学」と「時務学」の二つに分類されます。

 人と成るためには、どうしても基本となる学問、あるいは教育を受けることが必要です。単に成人式を迎え、大人(オトナ)になるには努力は不要ですが、その様な立派な人と成る学を特に「人間学」と呼んでいます。

 これに対し知識や技術を身に付ける学問を「時務学」と言います。普通「じむ」というと「事務」と書きますが、これは「時」を書いて「時務」と言います。本と末という点からすると「人間学」が本で「時務学」は末になります。本学があってこその末学であることを忘れてはいけません。

 ただし、「時務学」は末であると言っても、知識・技術というものは、まさに日進月歩で、軽視できず、企業を経営する上においても常に新しいものを吸収していかなければなりません。その時の務めを果たす上において「時務学」は重要なものであります。 

 また、「人間学」の中心になるのは道徳と習慣であります。社会人としての根本であり、ベースになるものです。「時務学」の中心は、先述した通り、知識と技術であります。ちなみに「経営学」は「時務学」の一つであります。

 本日のテーマは「人間学」の領域で、道徳、徳性、五つの徳目について述べていきたいと思います。
 
 人は誰でも、生誕と同時に「徳」を授かって生まれてきます。 “人間・人生で最高の目標は「徳」を養うこと”と言われています。(No.3参照) また、そこに至るには、まず「仁者」たれと教えられています。

 では、まず“五常”とは何を指して言うのか、体系を示したいと思います。

  第1の徳目・・・・「
  第2の徳目・・・・「
  第3の徳目・・・・「
  第4の徳目・・・・「
  第5の徳目・・・・「

 以上の5項目、「5つの徳目」のことを“五常”と呼んでいます。「仁・義・礼・智・信」、「あっ、この言葉は、いつか昔、本や映画やテレビで聞いたことがあり、見たことがある」と感じられると思われます。そうです日本人には、なじみの深い大昔からある教えであります。

 一つずつ解説していくことにします。
 
まず第1の徳目 「」 について

 「仁」とは、他を思いやる心情です。集団生活の基本となる徳目です。人間関係、特に相手の立場を重んじる、思いやる心的態度です。他を慈しむ、可愛がる心のことです。「」(キリスト教)と「慈悲」(仏教)と同じ感情のものです。

 「仁」の字は「人」の右に「二」と書き、二人の間に通じる心の意で一体感のこと、また“出会いを大切にし愛する心を持つ”という意味です。人間社会は複数の人々で構成されています。 故に人間は常に「孤にあらずして群である」ということを「仁」の字は教えているのです。

 「仁」は儒教の根本徳目とされています。孔子の教えの真髄で根本思想で原点であります。 「仁」は「人の道」の根本で全ての教えは、ただの一文字「仁」から発生し始まると教えています。

 次に「仁」は、忠」と「恕」の二つで成り立っていると述べています。 「」とは、自分自身に対する感情で自分を欺かず、全力投球し忠実に務めることです。 “良心”を偽らないことを「忠」といいます。組織においては上司や社長などへ対する気持ちに通じていくものです。

 「」とは、他人に対する気持ちで、他人への思いやり、我の如く相手を思う心のことで、慈愛の情(慈しみ愛する)、仁愛の心(思いやりのある愛)、惻隠の情(相手の痛みを感じる心)など、相手を許す寛大な心が「恕」であります。 父母・祖父母・妻・夫・子・孫・兄弟姉妹・親戚・友人・知人・師他、地域一般の人々に対する気持ちに通じていくものです。

 また、経営に関するステークホルダーの方々に対する気持ちに通じていきます。ステークホルダーとは、仕入先・得意先・お客様・社員とその家族・上司部下・経営者・その他の多くの利害関係者のことです。

 最後に、第1の徳目の「仁」と「忠」・「恕」これらは、経営や事業にとって、なくてはならない、決して軽んじてはいけない重要徳目の一つであることが理解されたことと思います

 部下や組織全体に一気に求めたいところですが、まずはトップ・リーダー・社長から身に付けるべき徳目なのであります。

  次回に続きます。
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2010/03/13(Sat)

(No.45) 「五常の道」を経営に活用せよ -その2-

 第2の徳目 「」 について

 「義」とは人間の行為のうちで“万人によって良いとされるところのもの”で、人間としての“正しい道”をいいます。 また、集団生活に欠かせない社会的規範規則で、それに反することを「不義」といいます。「不義」であっても法律の様に罰則はありませんが、法制化された部分はコンプライアンスが叫ばれています。

 「義」とは「我」と「羊」の合成字で、「我」という「のこ」を持って「羊」の肉を切り、正しいもの偽りの無いものを神に供えるという意味です。天に対して、社会に対して、決して背くことのできない厳粛な道理、これが「義」なのです。「義」は日常の生活や仕事と切り離すことができない大切なものです。「正義」「道義」「大義」に適(かな)うことです。

 「義」がベースとなって生み出すものが後述しますが、第5の徳目の「」であります。 論語の中に、「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁第四)との有名な言葉があります。 経営者にとって「利」は必要で大いに欲しいものでありますが、“「利」を見ては「義」を思うこと”が大切であります。

 それは物事の判断の基準は、「義」が正しいのですが、一番厄介で問題なのは「利」という心、つまり自分の欲望・私利私欲であります。これが“志”の害となりやすいのです。 その「利」が「義」にかなったものであるかどうかを、よく考えて見ることが大切になります。

 「義利の弁」をわきまえると言い、重要な判断をされる時の尺度にされると良いでしょう。 私利私欲が勝ち出すと、どうしても世のため、人のためという“志や理念”から離れがちになります。 だから「利を見ては義を思う」ことが大事だと教えています。“利と義が一致するほど真の利である”ということも忘れてはいけません。

 ところが、現在の世の中、これとは逆のことばかりが起きています。 実名は控えますが、食品汚染、賞味・消費期限の偽装、生産地の虚偽記載、食べ残しの使い回し、建築設計の偽装などは、氷山の一角で数え切れません。

 「小人は利に喩る」とは良く言ったものであります。 「義」を思う人がいなくなったのかの感じがします。残念で仕方ありません。 「義」と「利」は、まさに人間を君子にさせるか、小人にさせるかの分岐点であります。
 
 繰り返しますが、「君子(社長・トップ・リーダー)は義に喩る」であります。また、「利によりて行えば怨み多し」(里仁第四)とも言っています。その教えの通りで、現実の世界でも全くその通りになっています。

 「不義」を実行したために、また「利」に喩り、「利」に重きを置いて、「義」を無視した結果、“企業の最大の宝”である“社会的信用”が一夜、一瞬にして失墜し、企業は破綻するのです。 いかに「不義」が恐ろしいものであるか、身が震える程であります。

 第2の徳目である「」について述べましたが、第1の徳目の「仁」と同様に「義」という徳目は企業経営にとって絶対無視してはいけない必須の徳目であると理解して頂きたいと思います。

 「経営学」も大事ですが「人間学」を学ばずに経営をすると、うまく行かないのであります。 両方は車の両輪と同じで、片方のみでは前に進めないのであります。(当コラムNo.26参照)

 次回に続きます。
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2010/03/20(Sat)

(No.46) 「五常の道」を経営に活用せよ -その3-

 第3の徳目 「」 について

 人間関係の根本にあるのが「礼」です。 「礼」は「示(神の意味)」に「豊」と書き、「禮」が、もとの字で、神にお供えする物を捧げる意がありました。
 
 そういうことから「礼」とは、集団たる全体と、全体を構成する部分、あるいは部分と部分の間にある秩序、調和を保つ働きを言います。
 
 又、その社会で習慣化されている敬意表現の規範的形式です。「礼」とは第1徳目の「仁」が形となって外に現われたもので、本質的には「仁」と同じで、「仁」は心の中のもの、「礼」は外に現われたものです。「礼節」をわきまえることです。

 具体的には次の5項目に分かれていきます。 「敬」「謝」「謙」「譲」「和」です。一つずつ見ていきましょう。

 ①「」・・・・他人を“敬い”、自分を“慎む”のが「敬」の心です。自分の心をもって自分を引き締め、そして相手を敬うことです。

 年令や、職業、その時の肩書き等で人を決めつけたり、見下したりしてはいけません。父母、無数の先祖(27代さかのぼれば1億人を突破します)、兄弟姉妹、人生の先輩、師、上司、社長、お世話になった人々などに対する気持ちです。

 それらの沢山の恩に気付く感性が必要でしょう。人間はバラバラのようですが、深い所で、みんな繋がって生きているのです。相互依存の関係で互いに生かされて、生きているのです。 この「敬」は、現代社会ではもはや失われた、もしくは、乱れていると言われているテーマです。

 ②「」・・・・感謝する。お礼を述べる。謝る(謝罪、陳謝)。物をギフトで贈る。頭を下げたり手を握るなど体で表現する。心がこもっているのが条件ですが、心が存在しない、心のこもっていないお礼を“虚礼”といいます。徹底的に感謝することを勧めます。

 ③「」・・・・へりくだる、控え目にすることです。謙虚であり謙遜することです。「実る程、頭を垂れる稲穂かな」ともいいますが、人間は自信が付き、順調に成長発展すると自信過剰になり、段々と“傲慢”な心が芽生え、人の意見を聞かなくなり、人が離れていき、経営者であれば会社は衰退し、最悪時は破綻滅亡していきます。

 ですから、「謙」の徳を備えていない社長は要注意であります。「事業の大病は、ただただ、これ傲の一文字なり」と戒められてます(王陽明の伝習録)。常に絶対謙虚を勧めます。

 ④「」・・・・主張を譲る、行動を控え目にすることです。(譲歩、謙譲)又、物や地位や権利、権限を他に譲ることです。(譲渡、譲位、権限委譲)

 獲得する(take)より、ゆずり与えるgive)の意です。「奪い合えば戦争、ゆずり合えば平和」との言葉もあります。いざとなったら、私利私欲が邪魔をします。ここが一番難しいのです。 この項目も現代では、失われつつある、忘れられつつある項目の一つであります。自己中心、損得中心、物質主義の蔓延の結果です。

 ⑤「」・・・・おだやか、のどか、仲良くしようの意です。(和気、温和、調和)家庭、職場、顧客との人間関係などで実現して下さい。特に挨拶は基本になります。目を見て、目と目を合わせて挨拶するのが礼儀です。

 最後にまとめますと、「礼」にはエチケットやマナーという一般的な意味もありますが、より大切なのは、「礼」によって組織全体の調和と安定がもたらされるという点です。例えば会社組織を考えますと、そこには様々な年令や性別の人間が混在しています。

 又、一方では常に利害関係が存在しています。こうした複雑な状況にあって、「礼」というものが欠けていれば、組織は決して円滑に機能していきません。
 
 従って、「礼」は経営を司る者にとって絶対に欠かせない重要な徳目なのです。「礼」を欠いたリーダーには集団をまとめることも、引っ張っていくこともできないことを理解して下さい

 礼節をわきまえることは、リーダーの必須条件の一つであります。

 次回に続きます。
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2010/03/27(Sat)

(No.47) 「五常の道」を経営に活用せよ -その4-

 第4の徳目 「」 について

 現在から未来への物事や人生を創造していく源泉になるのが「智」の徳です。 智惠智慧の「智」です。「知識」「見識」「胆識」へと段階があり、成熟させないといけません。

 「知識」とは、物事を単に知っている状態です。ペーパー知識ではなく体験知識まで深め、自分の血肉にして下さい。 「見識」とは、社会体験が加わって善悪の判断ができる状態です。 「胆識」とは、勇気ある実行力を伴った「見識」のことです。

「見識」のある人は多いが、「胆識」のある人は少ないと言われます。 経営は実践行動科学と言われ、いかに実行力が大切であり、また実践行動がいかに難しいかを示唆しているものであります。“知行合一”といわれます。“本当に知るとは必ず実行が伴う”の意です。

 では、「胆識」を身に付けるにはどうすれば良いのでしょうか?それは、私淑する(秘かに師事する)人物を持ち事上磨錬(じじょうまれん)することです。実際の事象に当って精神を錬磨することを事上磨錬といいます。つまり、常に古典などの書物を深く読み続け、私淑する人物を発見することが重要になります。

 そこに古典を学ぶ、「人間学」を学ぶ最も高貴な意義があるのです。読書は簡単そうですが、習慣にしなければ三日坊主になりがちで一朝一夕にはいかないようです。継続は力なりです。 (当コラムNo.41と関連)。

 最後の第5の徳目 「 について

 人間社会の中では、それぞれの人間の間で一貫して変わらない「不変の徳」が必要なのです。その「不変の徳」のことを「信」といいます。人間の間で嘘や偽りがあったとしたら全てが狂ってしまいます。だから「不変の徳」がなければ人間社会が成り立たないのです。

 「信」は常に意識はされないと思いますが、人間社会存立の基盤であります。「信」が失われたら社会は崩壊します。親子、兄弟、夫婦、友人、経営陣と社員、企業とお客様、仕入先、銀行など事業経営でも政治でも国と国でも同じであります。
 
 政治では“信を問う”という言葉もよく使われています。「不信」では絶対みんな生きていけないのです。いわんや経営などもってのほかです。「不信」では経営は成り立ちません。
 
 従って約束を守ること。嘘を言わないこと。正直であること。要領や策やテクニックを弄しないこと。「信義」(約束を守り義務を果たすこと)を守り、「誠」を尽くし貫くことが重要になります。

 「」は第2の徳目の「」(人間として正しい道)がベースになって生み出された徳目です。「義」と関連し、つながっている徳目なのです。又、「信」とは、“信用”や“信頼”のことです。人や組織、企業と付き合うべきか否か?を決定する際の物差しになります。

」は、“商売の原点”とも言われています。(当コラム№29参照) 企業の最大の宝は、お金ではなく、人が創り出す無形の“社会的信用”であります。企業・会社・社長にとって最大の宝なのです。将来の黄金の卵を生み出す宝であります。

 無視したら絶対にいけません。もし些細な事であってもトラブルが発生したならば、即、手を打たないと将来必ず後悔します。一旦信用失墜したら命取りにもなりかねません。 回復するのも相当な時間がかかり、非常に困難でお金なんかでは決して買えるものではありません。どうか皆さん大切になさって下さい。

 長編の経営コラムでしたが、経営にとって、経営者・トップ・リーダーや指導者にとって、絶対避けては通れない大事な大事な「五常の道」の解説を致しました。 大いに実務でご活用いただきたいと念じながら筆を置くことにします。ありがとうございました。 (当コラム№26参照)

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2010/07/03(Sat)

(No.61) 苦が大きい程、人は成長して行く

 苦しみが大きければ大きい程、人は成長し進化していきます。困難が多い程、人間は成長できます。納得のいかない苦しみが自分を磨いてくれます。

 古い教えには、「艱難辛苦(かんなんしんく)、汝を玉にす」、「逆境は神の恩寵的試練である」と残っています。
 
 災いは人生最良の師。艱難は世の経験を積んでない人に対する良薬である。楽は苦の種、苦は楽の種。若い時の苦労はお金で買ってでもせよ。どんなプロでも、どん底の時がある。底まで沈めばもう落ちない。底をけってバネにして浮上できる、と教えています。

 「人物修練の基本は、人生の艱難辛苦、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰そういう人生の事実、生活を勇敢に体験すること」と安岡正篤師も述べておられます。

 苦境逆境の時、喜ぶことができる人、幸せを感じる人、感謝できる人、この人を“上級者”といいます。自己にふりかかる全ての事象を、絶対必要、絶対必然、絶対最善と思える人です。上級者と呼ばれる強い精神、心を持った人間になりたいものです。

 苦悩感なくして幸福感はない。窮乏があって満足がある。苦痛があって平安がある。塩はなめてみないとわからない。体験の大切さで、頭ではありません。満腹感の者に食事のありがたさはわかりません。

 「敗事は多く得意の時により、成功は常に苦心の日に在る」これは、順境の時につまづきの芽があること、逆境に陥っても心掛け次第で、それを成功への転機にできることを説いています。

 「天が重要な任務をこの人に与えようとする時は、必ずまず、その人の心を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、肉体を飢えしめ、その仕事を失敗させてその意図を食い違う様にする」とあります。これは天が、その人を発奮させて、性格的に辛抱強くさせ、今までできなかったことをできる様にするための試練を課しているのであると解釈できます。

 そもそも、人間は物事に失敗して行き詰まって初めて悔い改めるものであり、心に苦しみ、思案にあまって悩み抜いてこそ、初めて発奮し立ち上がるものであります。その煩悶(はんもん)や苦悩が顔に出、うめき声を出すようになって初めて心に悟るものがあるのです。

 人生は思うようにばかり行かないもので、得意絶頂から失望落胆や失意どん底、つまづき、挫折など様々な想定外の出来事やアクシデントが起こるのも人生であります。一難さってまた一難。山また山の連続です。

 順風満帆で常に順調であるに越したことはありませんが、易経には「亢龍悔いあり」との教えがあり、天に高くのぼりつめた龍や栄達を極めた者は、もはや昇り得る道もなく、衰えるおそれがあるから慎んで生活しなさいと戒めています。どんなに順でもいつかは衰退が待っている、夏はいつまでも続かないから、「夏にいて冬を忘れず」と教えています。

 最後に、私たちのまわりには、まだまだ不況の嵐が吹きまくってますが、いつまでも続くことはないでしょう。終りのない不況はなく不況の次は好況が待っています。循環しているのです。

 ピンチの時は辛いでしょうが、大チャンスと考えて下さい。考え方、とらえ方一つなのです。安逸を貪っていると知恵は退化していきます。とても困った時に本当の知恵と勇気が湧いてくるのです
 
 努力という畑に辛抱という棒を立てて下さい。その棒にきっと花が咲くことでしょう。“努力”だけではだめで、もう一つ“辛抱”という言葉を自分の力に加えてみては如何でしょうか。

[補足]
 
 努力とは、ある目標や目的を達成するために途中で休んだり、怠けたりせずに持てる力の全てを傾けることです。辛抱とは、環境の苦しさに押し流されないで向上心を持ち続けることです。
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2010/07/10(Sat)

(No.62) 人間は深い部分でつながって生きている

 「自分さえ自社さえ成功すれば」「自分さえ自社さえ幸せになれれば」「自分さえ自社さえ生き残れば」そう思って働きバチの如く努力して突き進んだ結果、手にしたのは空しさだけだった、果ては会社は過去のものとなったという話はよく耳にします。

 人はまた会社はなぜ自分の自社の幸せのみを追い求めるだけでは幸せになれないのでしょうか?

 その答えは?自分だけよければとの考えは真理に反するからであります。また、私達人間は一見バラバラに存在している様に見えても、樹木でいえばそれぞれの枝が一本の幹でつながっている様に、全ての人達は深い部分でつながっている、深い部分でお互いに結びついて生きているからです。

 お互いに支えあって生きているのです。相互に依存し関係を保ちながら生かされている存在なのです。その様にして広い世界、広い社会は成り立っているのです。ヒトとヒトの間で生きているから“人間”というのです

 ヒトは一人では生きていけない存在なのです。いや俺は一人の力で生きている、自社の力だけで生きているなんて考えている人は、残念ですが、視野がせまく世間にうとく、まだまだ表面的な考え方しか出来ない人なのです。人間観、人生観、世界観が深く醸成されていないからです。

 この世の中は、一見弱肉強食の醜い様相を示しています。多くの人達は自己中心主義で「自分さえ成功すれば」「自分さえ楽な生活ができれば」と目の前の欲望に翻弄されて毎日を送り二度とない人生を終えていきます。人生は一回きり、人間は死亡率100%の生き物なのです。

 しかし、はかない存在のように思えても、その根底は大宇宙につながり一つの命を分かち合って生きる存在であることを忘れてはいけません。微生物、植物、動物、人間で形成している生態ピラミッドを認識するだけでも人間観、人生観が広がります。

 そのことを知り「大河の一滴で差し支えない」「宇宙の一微粒子の存在で良い」「宇宙の片隅のチリの一つに過ぎない」と満足するところに幸せを掴むヒントがあるのです。知足(足るを知ること)といって無いものを数えず、あるものだけを数えて満足する意です。

 生かされた命に感謝して、お互いに助け合って、支えあって生きていく。相互依存状態で生きていく(当コラムNo39と関連)。今の厳しい時代は、そのことを学ぶ大切な機会なのではないかと思う今日この頃であります。

 自他を区別しない精神的な面での渾然一体感を教え、また自他は現象としては違うが、根源においては一つであり相互に依存し合っていることを示している、「自他一如(じたいちにょ)」の言葉が今こそ生かされるべき時代が到来しているんだと感じています。

 人類にとって経済的一面では厳しくつらい時ですが反面、精神的一面では、絶対必然であり、絶対最善でベストであるのかなぁ、天が人類に何かを気づかせようとしているのかなぁと思ったりしております。(当コラム№32と関連)
 
 もち論不況を早く脱出して好況に転ずるのを心から期待している者の一人であります。

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2010/07/17(Sat)

(No.63) 「人間的魅力」を高めると「仕事力」もアップする

 現代は小手先の技術やテクニックに走り過ぎ求め過ぎだと思われます。本と末で分ければ、末ばかり追いかけて生きているのを感じています。

 学校では試験の成績や偏差値を上げることに目の色を変え、何か資格さえ取っておけば就職もすんなりできるだろう、また、与えられた仕事もスムーズにできるだろうと思っている様です。町の本屋さんには、ハウツウの実用書がずらりと並べられてます。選択するのも大変だろうと思います。

 もち論、知識・技術・資格・方法論も大切であります。しかし、どんなに立派な知識・技術・テクニック・資格を身に付けても、その人自身が人間として立派でなかったら絶対に良い仕事はできないのです。(当コラム№21参照)

 「あの人は有名大学をトップで卒業したすごい秀才だが、人間的には最低な人」などと言われると、せっかく首席で卒業した価値が出てきません。知識や技術を否定する訳ではありません。それ以上に大事なことは、人間性や人格を高めることです。「人間力」と表現してもよいと思います。「人間力」とは、即ち「人間的魅力」のことであります。

 では、人間としての魅力は、どうしたら高めることができるのでしょうか?それは極めて簡単なことであります。少し考えてみましょう。

 まず嫌われる人とはどんな人なのでしょうか?それは、自分のことしか、目先しか、損得しか考えない人です。
 
 逆に魅力のある人とはどんな人なのでしょうか?それは、世のため人のため、みんなのためにと思って、周りにいつも関心を持ち、周りに対して思いやりの心を持って行動できる人です

 では、次に人間的にみて最低と思われる人、全く信用できない人とはどのような人なのでしょうか?私見として述べますと、それは、嘘をつく人、約束を守らない人、礼節をわきまえない人、お礼を言わなかったり挨拶をきちんとしない人、人をだます人、人の悪口ばかり言いふらす人、人の意見を聞かない人、聞く耳を持たない人、不満ばかり愚痴ばかりを言う人、人を褒めない人、全てを否定し少しでも肯定しない人、要領のうまい人、策ばかり弄する人、損得ばかりの人、まだまだあるかも知れませんね。

 前述しました、周りに関心を持ち、周りの人達のために、すぐに行動を起こせる人間は魅力的な人です。
「私には関係ない」と思って行動しない人は、自分のことしか頭にない人で、魅力ある人とは言えません。

 「人間力」や「人間的魅力」を高める基本は、みんなのためにと考えて、周りに関心を持ち、みんなのために惜しげもなく行動を起こせる人になることです

 実はこの基本がひいては、「」の出発点になるのです。「志」の原点は、みんなの利益のために(利他)という考え方です。自己の利益を大きくしようという考え方(利己)は、分からないではありませんが、本来の「志」ではなく、それは私利私欲にすぎないのです。

 自分だけの成功を願い思うだけでは「志」とは言えないのです。周りや地域社会全体が良くならなければ、業界全体が良くならなければ、日本全体がひいては地球全体が良くならなければいけないのです。これが「志」の原点になるのです。

 「志」の原点は、繰り返しますが、「人間的魅力」を高める基本と同じで、みんなのためにという心ではないかと思います。利他性を追求する心ざしのことなのです

 自分に「人間的魅力」がなければ、どんなに熱心に働いても成果は上がりません。「仕事力」がアップしないのです

 具体例で説明しますと、営業の世界では、「人間的魅力」のない営業マンは嫌われます。自分の利益しか考えない、自分のノルマ達成しか考えない営業マンは、朝から晩まで歩いても、熱心に歩けば歩くほど、お客様からは、「うるさいなぁ、しつこいなぁ」と嫌われます。店舗販売での接客でも同じことが言えるのです。

 逆に、お客様に行けば行くほど成果が上がるのは、魅力的な人です。どういう人が喜ばれるかというと、相手の利益に熱心な営業マンです。熱心であればあるほど、評価されます。

 まさに人間としての魅力を高めながら歩けば、その魅力は人を呼び、人を引き付けるのです。魅力がない状態だと磁石の磁力と同じで引き付ける、引き寄せる力が弱いのです。よって成果につながらないのです。

 心当たりがあられる経営者も多いことと思います。経営や事業や商売や営業活動において、基本中の基本の姿勢で最低必要条件であります。明日からでも、意識転換を図られ実務で活用なさって下さい。

 最後に、今の世の中は本と末が転倒し逆さになっています。「人のことは関係ない。自分さえ良ければ良い」この考え方が蔓延しています。「人間は自分さえ、目先さえ良ければ良いとなったら、必ず行き詰まります」(当コラム№15参照)この真理をついた言葉の重みをつくづく感じております。

 世の中を憂えているのは私一人なのでしょうか?今後も警鐘を鳴らし続けようと思います。

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2010/07/23(Fri)

(No.64) 確乎不抜の志を打ち立てる (易経より)

 潜龍(せんりゅう)の時代は内面的な蓄積をする時なのです。潜龍・・・・社長職を継承なされてまだ日が浅い方、または将来、社長職を継承なさる二代目三代目の若い時代。もしくは、今は平社員で、幹部でもない人だが、将来起業して社長になる人を潜龍に例えました。まだ水面下にもぐっていて頭が出ていない状態の人の例えです。

 同時に潜龍の時代とは、静かに将来を思い考える時代です。思うこと、研究すること、思索することは静かな時でないとできません。認められ、出世して、高い地位(社長や役員)につけばつくほどに忙しくなっていき、勉強する時間がさほどありません。
 
 だから、まずはとにかく力を蓄えるのです。蔵するのです。将来、飛龍(名実ともに社長)として、どの様な大きな循環を起こすか、大勢の人をいかにして順調に養って行くかを夢見ながら静かに思う時なのです。
 
 従って、潜龍の時代は修養の時、修行の時、器量を付け度量としての徳を身に蓄える時、大いなる志・“確乎不抜の志”を打ち立てる時なのです

 その様な時に早成を願って事を構えたら、失敗するのが当たり前、恥をかくだけではありません。二度と立ち上がれない程の痛手を受ける場合もあります。焦ってはいけません。
 
 この潜龍の時代を大抵の人は嫌います。でも実は飛龍(名実ともに社長)になった時のスケールは、その深さも厚みも潜龍の時代に、かなりの部分が決まるのです。
 
 いかに“確乎不抜の志”が大切であり、また将来にまで影響するかということであります。人は促成栽培ができないのです。「社長になってからで間に合うさ」では遅すぎるのです。その様な方は人の数倍の努力と時間が必要になります。

 また、逆に、潜龍の時代に志を立てていても、その志が正しくなければ、例えば自己中心、損得中心、目先のみ、私欲のみなど利他性の欠如であれば、どんなに成功しようとも、全ての行いは空しいものです。永続は難しいのです。
 
 ですから潜龍の時代は、目立たず下積みの仕事が多く、大勢の人は嫌がりますが、実は誠に大切で重要な時なのであります。
 
 今から約5000年前の中国古典の「易経」には、「すべては“志”からはじまる」と何度も書かれています。
「志」とは、仕事や経営や人生を左右するほど、影響が大きい重要なキーワードであります。(当コラム№23 と №31参照)

 「」の字の説明をします。十の心を一つにするの意味があります。十とは沢山の大勢の人々ということです。沢山の人々の心を一つにまとめ、引っ張っていくという意味で、トップやリーダー・社長という地位にある人を指した言葉でもあります。「志」とはトップを務めるための必須の条件の一つでもあります。

 私事で恐縮ですが、還暦を過ぎても、まだまだ半人前で修養中の身で、「いつも潜龍元年。今が潜龍元年」と自戒しております。

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2010/07/31(Sat)

(No.65) 「徳」には見えないパワーが潜んでいる

 古典には「」という字が何度も何度も出てきます。「君子の徳」とか「徳の修養」という言葉があります。「徳の修養」といったら、「徳を修める。徳を養う」の意ですが、「徳って何ですか?」と改めて聞かれると、ちょっと話しづらくなってしまいます。

 当経営コラム№3で、人間最高の目標は「徳」を養うことである孔子)との、言葉を紹介致しました。また、「徳」の意味することを、次のように説明致しました。

 ①修養によって身に付けた善行など人間の良い行いのもととなるもの。
 ②人格が優れ行いが良いこと。
 ③良い行いができる性格、身についた品格。
 ④人を感化する人格の力。
今回は、その続きを述べてみることにします。

 この「徳」の字は、「行い」+「直(まっすぐ)な心」で必ず実行が伴うという意味になります。「直」の字は「真(ま)っ直(す)ぐ」と「目」が合わさった字に、「衝立」を付けたものです。「衝立に隠されているものを真っ直ぐに見る」という意味があります。

 真っ直ぐに見ることによって見抜く、心の眼で見る。そこから「洞察力」という意味も出てきました。ものの本質・力・方向性を「洞察力」で察知する、要するに「徳」という字そのものが「パワー」とか「」という意味を持つようになりました。この「洞察力」は、経営者にとって必須の力と言われています。

 話は転じて、「下(した)観(み)て化するなり」の言葉があります。観に「示す」、「見られている」という意味があります。どの様なことか事例で説明します。

 ある会社の業績が低迷しておりました。そこで社長が本当に一所懸命になって、「地域社会のため、お客様のため、従業員のために喜んでもらえるだけの商品を作ろう、提供しよう、そういう会社にしよう」と、誠心誠意努力をされました。すると「下」の部下や従業員はそれを見て良い方へ変化した(化けた)という事例です。部下や人が変化するのは知識や技術・テクニック・策を弄することではないのです。

 口で、どんなに綺麗ごとを並べても、行動が伴わなければバレてしまうものです。まして部下は変化などしないものです。
何も言わなくても、働く姿やその背中に誠(「徳」)は表われるものなのです。前述の「徳」のもつ「パワーや力」が影響力を発動するのです。

 この様に本当の誠(社長の「徳」)を見ることによって、社員は感動して理屈抜きで心が通じるのです。そして知らず知らずのうちに化けていくというのが、「下観て化するなり」の説明です。

 企業は社長の人間性でほとんど決まります。事例の会社は結果として必然ですが、業績が回復し成長発展を続けておられます。

 どうか参考になさり、「徳」の実践をなさることをお薦め致します。

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2010/09/11(Sat)

(No.71) 「財」の根本は上に立つ者の「徳」

 論語の有名な一文に「徳は孤ならず必ず隣あり」(当コラム№3参照)とあります。
 また、中村天風氏の「どこまでもまず人間をつくれ。それから後が経営であり事業である」(当コラム№6参照)との教えも残っております。
 この二つの名言は同じ意味のことを示しています。どの様な意味を含んでいるのかについて考えてみましょう。

 一般の企業や会社をイメージしながら考えてみたいと思います。
 まず、社長が人間的に立派であり、徳のある人がトップや社長であれば、世間ではその評判を聞きつけて、その会社に良い人材が集まってくるのです。これは徳のある人は孤立することがなく必ず共鳴する人が現れ、共時性(シンクロニシティという)が働き、社外から良い人が集まり好循環の結果につながっていくのです
 
 このことが「徳は孤ならず必ず隣あり」の意味していることであります。
 
 次に良い人材が集まってくればどうなるのか。その会社では工場や店舗や営業所などの組織が充実していきます。すなわち、生産機能や販売機能が充実し、自ずから生産力や販売力が高まり、売上拡大や成長が続き、財を増やしていけるのです。

 また、財が生じ増加していけば、これをいろんな働きに用いることができます。経営では投資といいます。この投資が良循環していき、回収にまわり売上や収益の拡大が生じていきます。つまり成長軌道に乗っていくため、その後も投資回収、投資回収と成長発展が継続できるのです。

 この財を生むものは何か。究極的には企業や会社では経営者の徳であるということができます。この根本を考えずに、ただ売上や利益すなわち財だけを追求するのみでは最後は争いや人心の荒廃が進み、最悪では破綻しか残らないということになります。いかにトップの徳がキーポイントなのかが理解して頂けると思います。

 整理してまとめてみますと、上に立つ人、社長の徳が本であり、財は末であるという関係が成り立ちます。逆に説明しますと、財(末)の根本は、上に立つ者の徳(本)であるといえるのです。中国古典には、「徳は事業の基なり」(菜根譚)とも教えています。事業を発展させる基礎になるのはその人の徳であるとの意味なのです。

 外から良い人材が集まってくれば、内部では部下や若い人々の徳性教育ができ、人を育て人をつくっていくことができます。また、外部との人間関係もスムーズに運ぶため良循環・好循環が続いていくのです。

 まさに「物をつくる前に人をつくる」で有名な松下幸之助氏の言葉が思い出されます。(当コラム№6参照)
前述の「どこまでもまず人間をつくれ。それから後が経営であり事業である」との戒めが、いかに経営の本質をついた言葉か、を知ることができるものです。

 その様な考えは古い古い、現代の経営ではそんなことは当てはまらないとお考えの方も多いでしょうが、倒産企業や衰退企業の実例からいいますと、ずばり当てはまる例が多いのも事実であります。

 単に業界の知識に精通しているのでとか、営業経験が長く得意先を沢山かかえていたから、独立しても自信がある。または、多少なりとも経営学を学んだので、経営に関しては全般的な知識は身についているので役員に抜擢されたがうまくいくだろう。

 などの甘い認識で経営に携わりますと、いつかは人間学を学ばなかったツケが次から次へと露呈していきます。宿題は必ず後から追っかけてくるものです。手抜きは許されないのです。経営とはそんなに甘いものではないのです。

 人間学が本で経営学が末であります。が備わっていてこそが生かされるのです。両者は車の両輪でどちらが欠けても前へは進めないのです。(当コラム№26参照)バランス良く力をつけていって下さい。時間をかけて一歩ずつです。

 人間学(経営思想)と経営学(経営技術)の両面を探求していけば良いのです。(当コラム№42参照)
 「経営者の運命を良くする7か条」(当コラム№27参照)で述べましたが「よく学び働く人・勤勉な人」でないと器が大きくならないために永続は難しい様であります。私を含め経営に携わっておられる方々、心したいものであります。

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2010/12/11(Sat)

(No.84) 人は何のために働くのか? (1/2)

 人は何のために働くのでしょうか? また、働く目的をどこに求めたらよいのでしょうか?
それにはいろんな考え方があるでしょう。
 
 食べるため、生活の糧を得るのに収入が必要なため、親の事業を継ぎ会社を存続させるため、他人が就職しているので自分も仕方なく働いている、人生の生き甲斐を見つけるために、自分の自己実現の欲求を達成するために等と十人十色の回答が得られると思います。

 一般的に考えますと、人はある程度の年令になると職を持ち、それから以降の人生の大半を働いて過ごしていきます。もしも、働くことに価値観や意義や幸福感を感じられなければ「自分の人生とは一体何なのか?何のために私は働いているのか?」という不安や疑問が一生ついて回る様に思われます。
 
 その点で仕事とは人生そのものであるといっても過言ではないと思います。仕事に生き甲斐や価値や意義を見出せなければ、人生の意味がほとんど薄れていくのではとさえ思われます。
 
 以前に、当経営コラム№28(仕事をする際の心構え)でふれましたが、仕事と人生は別ものではなく、一対で一体で切り離すことができないものです。充実した仕事が充実した人生を作るのだと考えられます。

 「人生の目的は、仕事を通して魂を磨くこと、心を高めること」「くことが人間性を深め、人格を高くする。働くことは人間を磨くこと、魂を磨くことだ」と、稲盛和夫氏も教訓を述べておられます。自己の人格的な成長は働くことによって得られるのですと教えられています。
 
 また、中村天風氏は、「人間はこの世の中の進化と向上を実現化すという使命をもって生まれてきたのだ。この使命の遂行こそ働くという行為であり、人間本来の眼目である。この様な使命の遂行観に基づく自己実現の実感こそが生き甲斐なのだ」と述べられています。
 
 天風氏の自己実現とは、与えられた使命を仕事を通して達成することの意味であり、昨今言われている自己実現とは意味が異なっています。仕事の目的として、今よく使われている自己実現とは、むしろ個人の夢を達成するものであり、天風氏の様に深い使命観に基づいたものではないと思われます。
 
 また、生活の糧という目的は、現在2度目の就職氷河期であるため、ある面は仕方がないとは思いますが本来の目的とは異なるもので最低限のものと言っても良いと思います。

 本テーマである「人は何のために働くのか?」と問われた時、米国では「価値バリューを上げるために働く」という答えが多い様です。彼等は働き、経験を積んで知識や技術、スキルを増やすことで、自分の価値が上がっていくという考え方をするのです。

 そして価値が上がると、次々と転職をします。転職をすることで自分の年収がどれだけ増えるか、また年収を増やすために転職を重ねるのです。
 
 エリートビジネスマンであれば、退職するまでに約10億円を貯金することを目的目標とします。これが彼等の基本的な発想なのです。
 
 そこには天命や使命に従って働くという考え方は全くありません。それよりも、リタイアした後の人生をいかに楽しむかが彼等にとっては大きな目的なのです。俗に言うアメリカンドリームであります。

 (次回に続きます)
 
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2010/12/18(Sat)

(No.85) 人は何のために働くのか? (2/2)

 ところが、2008年9月の大手証券会社リーマンブラザーズの破綻によって、金融界にパニックが生じ他の産業にも多大なショックが走り影響が大きすぎて、国全体の経済や政治や米国民の心理がガラッと変わってしまいました。
 
 そのリーマンショック以降アメリカンドリームと呼ばれていた思潮がどんどん遠ざかり、夢のまた夢という概念に落ち込んでしまいました。

 人生とは、目標や思いが狙い通りにはいかないものなのですね。万国どこにいても共通の様です。どんな人生を生きるかは人それぞれです。だから、米国の仕事観や価値観を一概に否定する訳では決してありません。
 
 が、彼等が求め続けた自己実現の思いがこうした結果に至るのであれば、あまりにも寂しい心境になるのは仕方ないことなのでしょうか。

 東洋思想では、仕事とは天命や使命に従って働くことだと考えています。若い方々には理解して頂くことは難しいかもしれませんが・・・・。
 
 仕事という字は、「」も「」も、「つかえる」と読みます。誰に仕えるのかといえば天につかえるのです。天につかえ、天の命に従って働くというのが、東洋に古来からある考え方なのです。
 
 かっては、働きに出ることを「奉公に出る」と言いました。「公に奉ずる、公に仕える」という意味です。西洋には全くと言っていい程、見当たりません。仕事そのものの中に、生き甲斐や働き甲斐を見出していこうという考え方は、どうも東洋独自のもののようです。

 米国では理想や目標をもち、それを達成して行こうという意志はあります。しかし、それは必ずしも公のためにやっている訳ではありません。むしろ自己実現という言葉の通り、「自分のため」の理想なのです。私利私欲に基づいた自己中心主義なのです。
 
 もち論、アンドリュー・カーネギー(鉄鋼王)、ビルゲイツ(マイクロソフト創業者)、ウォーレン・バフェット(著名投資家)等々、世のため人のためになる慈善事業を行っている人々も存在します。
 
 が、必ずしも仕事の中で実現しようという姿勢ではありません。むしろ仕事の中では、お金を稼ぐことに徹し、世のため人のためになる事業はリタイアしてからやるという考え方なのです。これは仕事そのものの中に、世の中の発展に尽くすという考え方がある日本とは、明らかに異なっています。米国と日本では仕事に対する目的や価値観が異なっているのです。

 現在の日本の経営観を眺めてみますと、米国流の考え方や発想が、日本人の経営観や仕事観の中にかなり浸透しているものと考えられます。戦後の歴史を振り返ってみますと、65年の間に米国流のマネジメントを学び真似したために仕方のないことだったし、また当然の結果であると推測されます。

 しかしながら、将来にわたって、このまま米国流の仕事観に基づいて仕事を進めていくのが果たして、日本人にとって良いことなのかどうかが気になる点であります。
 
 米国の状況を観察すれば一目瞭然ですが、米国では仕事についていけない人、脱落してしまう人がどんどん出て来ています。それと同じ様に、日本でも格差が生じて、ニート、フリーター、非正規社員が増加し、米国と同じ様な状況を呈しています。困ったものであります。

 最後に、仕事そのものに対する考え方が、今後も米国流、西欧流になればなる程、こういう人達が増えて行くのは必然なのだと思えることです。数十年後の日本の国の姿が見える様です。
 
 それを日本人は受け入れる覚悟があるのかどうかが、今まさに我々全員に問われている点であると私は危惧致しております。

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2010/12/25(Sat)

(No.86) 真の謙虚さとは何か?(易経 地山謙に学ぶ)

 私たちは、傲慢で高慢な人を嫌います。人間として好きにはなれません。傲り高ぶり、自分の意思ですべてが決まると豪語し、権力や地位を振り回し人のアドバイスや周りの意見も聴く耳を持たない人のイメージです。反対に謙虚な人には、人間的魅力を感じ引かれるものです。
 
 しかし、世の中には、謙虚であれば必ず好かれてすべてが通る、悪いことはないと教えられて、本当はとても傲慢なのに謙虚なふりをする人も多いのではないでしょうか?それは表面だけで真の謙虚ではないといえます。

 易経の中の「地山謙」の漢字の並びを見てみましょう。上が地で、下が山になっています。自然とは逆さまでひっくり返っています。(漢字は本来縦書きですから、上と下の表現ができます。)山の上に地があります。変だと思われませんか。本来は山地と書くのですが、逆になっています。山と地ならば、山が高いに決まっています。それなのに山が下にあるのはどういうことなのでしょうか?
 
 これは山が自ら快く地の下にへりくだっているという状態、意思を示しているのです。本来上にあるべきものが下にある。つまり、うわべだけの見せかけで謙遜しているのではありませんよ、といっているのです。

 結論から言いますと、快くへりくだるというのは社長の地位にいて高くなっている自分に恥ずかしい気持ちがあるからなのです。例えば、物事を学べば学ぶほど自分の今までの学びが基本的に足りないことを思い知らされます。

 「学んで己の無学を知る。これを学ぶという」との諺がある通りです。広くて奥がものすごく深い人間学や経営学を含めて不十分さや知らない事の多さや力のなさを嘆くものです。(現実では、新しい物の見方や気付きが新たに生じた時は目からうろこの体験もします)
 
 すると恥ずかしくて、ふんぞり返ってなど居られなくなるものです。そして、もっときちんと勉強せねば、もっと早く気付けば良かったという気持ちが起こります。
 
 地山謙という教えは、こういう気持ちを持った時に本当の謙虚さが出ることを教えてくれているのです。

 普通ならば頭が良ければ、その利口さを見せたいし、誇りたいものでしょう。出自(家柄)や生まれが良いとしたら、どこどこの名家の出だと自慢したいものでしょう。過去の実績があれば、その実績を認めてもらいたいものです。成功者だとしたら自分の成功体験を人に語りたいものです。それが普通の人間の姿であります。
 
 快くへりくだるという中には、自分が足りないことを知っていますから、もっと学ばなくては、もっと学びたい、もっと自分の徳を積みたいという真の謙虚さがあります。自分はまだまだ恥ずかしい存在だと自覚していますから誇れないのです

 この教えは、社長・トップ・リーダーたる者が自らを誇れば、逆に侮られることを教えています。社長としての統率活動もうまく進まないことでしょう。反対に真に謙虚に控えた場合は幸いを得るとも教えています。
 
 従って、易経で「君子は終わりあり」と述べていますが、「その謙虚な態度を終りまで貫いてくずさない。それが君子(社長・トップ・リーダー)なのですよ」ということを教えているのです。

 私なんか、職業柄いつもドキッとさせられる教えであり、いつも潜龍元年、今年も今も潜龍元年との戒めを思い起こし、まだまだいくつになっても半人前半人前だと自戒している箴言であります。
 
 経営者の皆様、いつかどこかできっと役に立つ教えであります。どうか活学を。
 
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2011/01/01(Sat)

(No.87) 人間いかに生くべきか?(1/3)

 人間いかに生くべきか?人間の生き方の探究は、私にとって、私達みんなにとって、永遠のテーマであります。生涯をかけて探究しつつ実践すべき一生の一大事のテーマであります。
 
 「人生は一回限り」「人生は二度なし」が、絶対的な不変の根本真理であります。また、全ての人間に当てはまる変えることのできない永遠の真理でもあります。この言葉ほど、我々人間をして人生の深刻さに目覚めさせてくれる真理は他には皆無といって良いほど見当たりません。この言葉は、簡単すぎて誰にもわかりやすいという長所があり、分かりきったことを何を今さらと言われそうです。

 ところが、そんなに分かりやすいということが、実は半面、意外と分かりにくいという一面を持っているものであります。どうしてなのかというと、それは常にこの真理を、いつも意識して自分の心に忘れぬようにしているということは大変難しいことだからであります。

 人間というものは、常に自分の人生の終末を見通して、それから逆算して日々の生活を充実するように生きるということは非常に困難なことであるからです。

 我々が、この「人生は一回限り」という一見すれば当然で分かりきったような真理を、常に心の中で深く固めていないのは、私達の考えが、未だ確固たる信念まで高まっていないからでしょう。言い換えますと、この宇宙と人生に関する考え方が、真にその人なりに確立していないからでしょう。すなわち、真に生きた宇宙観や人生観、人間観を持っていないからであると言って良いと思われます。

 それというのも、すべて他人様から耳で聞いているだけでは、真に自分のものにはならないからであります。単に聞いたり本で読んだりしただけでは、頭の中で言葉として分かっただけで、“学知”の状態であり、身をもって、体験を通して、肉体をもって、魂まで分からせる“覚知”の状態まで至ってないからであります。その言葉の本質が身に付いてないからであります。
 
 一般的には年令や人生の体験とも関係するのでしょうが、人生の折り返し地点である40歳前後にならないと、なかなか身に付いた言葉になるのは難しいかもしれませんが・・・・。

 要するに職業や社会的地位や肩書きが何であれ、その人が「人間としていかに生きるか」という一点が大事であると思うのであります。
 
 それがその人の残す唯一の遺産となり、家族や組織に影響を及ぼし引き継がれていき、企業であれば更なる成長発展に寄与できるのであります。
 
 社長やトップやリーダーである前に、「人間として、その一生をいかに生きるか」ということが問題の中心になると思います。組織のトップである社長だけでなく、我々全ての仲間が、その生き方を正す根本は、まず第一に「人生は一回限り」という根本真理に目覚め、地位肩書きを脱ぎ捨てて「人間として、人生をいかに生きるべきか」を追求する以外に人生の道はないものと思うのであります。

 (次回に続きます)

 【 執筆者より、新年のご挨拶 】
 新年明けましておめでとうございます。
当週刊経営コラムもスタートしてから、早いもので三年目に入りました。読者の皆様の温かいご支援のおかげと、心より感謝致しております。
 励ましのお言葉や感謝の言葉などを賜り、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
 本年も昨年同様、一心不乱の気持ちで執筆させて頂きますので、よろしくお願い申し上げます。

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