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    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

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2011/01/01(Sat)

(No.87) 人間いかに生くべきか?(1/3)

 人間いかに生くべきか?人間の生き方の探究は、私にとって、私達みんなにとって、永遠のテーマであります。生涯をかけて探究しつつ実践すべき一生の一大事のテーマであります。
 
 「人生は一回限り」「人生は二度なし」が、絶対的な不変の根本真理であります。また、全ての人間に当てはまる変えることのできない永遠の真理でもあります。この言葉ほど、我々人間をして人生の深刻さに目覚めさせてくれる真理は他には皆無といって良いほど見当たりません。この言葉は、簡単すぎて誰にもわかりやすいという長所があり、分かりきったことを何を今さらと言われそうです。

 ところが、そんなに分かりやすいということが、実は半面、意外と分かりにくいという一面を持っているものであります。どうしてなのかというと、それは常にこの真理を、いつも意識して自分の心に忘れぬようにしているということは大変難しいことだからであります。

 人間というものは、常に自分の人生の終末を見通して、それから逆算して日々の生活を充実するように生きるということは非常に困難なことであるからです。

 我々が、この「人生は一回限り」という一見すれば当然で分かりきったような真理を、常に心の中で深く固めていないのは、私達の考えが、未だ確固たる信念まで高まっていないからでしょう。言い換えますと、この宇宙と人生に関する考え方が、真にその人なりに確立していないからでしょう。すなわち、真に生きた宇宙観や人生観、人間観を持っていないからであると言って良いと思われます。

 それというのも、すべて他人様から耳で聞いているだけでは、真に自分のものにはならないからであります。単に聞いたり本で読んだりしただけでは、頭の中で言葉として分かっただけで、“学知”の状態であり、身をもって、体験を通して、肉体をもって、魂まで分からせる“覚知”の状態まで至ってないからであります。その言葉の本質が身に付いてないからであります。
 
 一般的には年令や人生の体験とも関係するのでしょうが、人生の折り返し地点である40歳前後にならないと、なかなか身に付いた言葉になるのは難しいかもしれませんが・・・・。

 要するに職業や社会的地位や肩書きが何であれ、その人が「人間としていかに生きるか」という一点が大事であると思うのであります。
 
 それがその人の残す唯一の遺産となり、家族や組織に影響を及ぼし引き継がれていき、企業であれば更なる成長発展に寄与できるのであります。
 
 社長やトップやリーダーである前に、「人間として、その一生をいかに生きるか」ということが問題の中心になると思います。組織のトップである社長だけでなく、我々全ての仲間が、その生き方を正す根本は、まず第一に「人生は一回限り」という根本真理に目覚め、地位肩書きを脱ぎ捨てて「人間として、人生をいかに生きるべきか」を追求する以外に人生の道はないものと思うのであります。

 (次回に続きます)

 【 執筆者より、新年のご挨拶 】
 新年明けましておめでとうございます。
当週刊経営コラムもスタートしてから、早いもので三年目に入りました。読者の皆様の温かいご支援のおかげと、心より感謝致しております。
 励ましのお言葉や感謝の言葉などを賜り、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
 本年も昨年同様、一心不乱の気持ちで執筆させて頂きますので、よろしくお願い申し上げます。

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2011/01/08(Sat)

(No.88) 人間いかに生くべきか?(2/3)

 前回に「人生は一回限り」で、それは絶対的で不変の根本真理であると述べました。また、その真理は簡単であるが故に難しい真理でもあると述べました。その理由は、その人の宇宙観や人生観や人間観が確立していないからでしょうと説明致しました。

 現代の世相は、社会全体が拝金主義、損得一辺倒主義が蔓延した結果、物事を金銭や損得で考え過ぎではないでしょうか?情報についても超高度情報化社会の到来と感じております。変化のスピードも一年一昔どころか数ヶ月で、目まぐるしく変化している様な気がしてなりません。
 
 その環境の変化に振り回され、じっくりと足元を見つめ、自分の人生を振り返ったり、人生の目的を考えたり、人間とはいかに生きれば良いのかなどと考えを深める時間が少なくなりつつあるのではないかと危惧しております。

 そこで、私淑する安岡正篤師の教えを思い出してみて考えてみたいと存じます。師は、人間の根本問題として、人間は、まず本当の自分、絶対的な自己をつかまないとだめだと言われています。“自得”という概念を教えられました。

 自得とは自分で自分をつかむ、自己を得ること、己で自己を把握する、徹見することと述べておられます。人間は自得から出発しなければいけない。人間はいろんなものを失うが何が、一番失いやすいかというと自己である

 自分のことは分かっている様で意外と分かっていない。人は根本において自分をつかんでいない。空虚である。そこからあらゆる間違いが起こると厳しいですが我々に教訓を残されています。

 また、金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうのは、およそ枝葉末節である。根本的・本質的に言えば人間はまず自己を得なければいけない。本当の自分というものをつかまなければならないと。

 人間の根本に関して人間の生き方について出発点を教示なさっています。自分自身の人間観や人生観を確立するという点で参考になる教訓だと思います。

 しかしながら、かく言う私も、30才頃にこの自得の意味や考えに触れましたが、理解するのが難しく自分のものとすることが出来ずに年令を重ねてまいりました。おそらく40才を越えた頃に少し理解が進み、自分の仕事や人生とすり合わせてみて、自得の意味が少しですが納得出来たような記憶が残っております。

 それまでは、人間観・人生観など確立しないまま生活していたのです。恥ずかしい限りであります。無理もないと思います。30才代は、仕事に無我夢中で我を忘れて仕事仕事の毎日だった様な気がします。
 
 よって、私の30代においては、人間とは?とか、人生とは?とかを深く考える余裕は持たなかったと振り返りをしています。

 (次回に続きます)
   
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2011/01/15(Sat)

(No.89) 人間いかに生くべきか?(3/3)

 それから数10年を経たわけでありますが、人間共通のテーマとして人生運命という領域で私なりに探究した結果、次の言葉の意味や意義や価値が少しわかった様な気がいたします。
 
 それは、①天命、②与命、③使命、④知命、⑤立命、⑥運命であります。東洋に生きているため、どうしても東洋哲学、東洋思想が中心になるのは仕方のないことでしょうが、簡単に一つずつ説明したいと思います。

天命とは。
 人間は誰でも天の命令や働きでこの世に生と命を受けている。宇宙の無限大の力、宇宙のエネルギーで生命をさずかっているの意です。

与命とは。
 天から自分に与えられた命に気付くこと。誰一人として自分の意志と力で、この地上に生を受けた者はいない。よって与えられた命である。それを与命という。肉体の誕生である。親は両親である。時間軸をさかのぼれば無数のご先祖様との連綿としたつながりに気付くものです。

使命とは。
 よって自分では知るよしもない、何等かの役割や務めが自分自身に課せられて与えられている。私達は一回限りの人生のプロセスで、「私は何に命を使うのか?」「命を捧げる対象は一体何か?」この概念が使命(観)であり、一人一人の人生の大テーマであります。
 
 この使命は、若い年頃では難度が高く、言葉としての理解は可能だが“学知”のレベルにすぎない。人生を折り返す頃に気付いたり悟ったりができて“覚知”の本格的に使命がわかったレベルに向上する。感性にて悟る、体で感じる、魂が感じる状態。第二の誕生(魂の誕生・志の誕生)という。(当経営コラム№31参照)肉体の親と違い、魂の誕生の親はその人の真の師であるでしょう。

知命とは。
 自分で、自分に与えられた天命、与命、使命に気付き、感じることを知命という。孔子は五十にして天命を知る(知命)と述べている。ちなみに十有五は“志学”、三十は“而立”、四十は“不惑”、五十は“知命”、六十は“耳順”、七十は“従心”と語り七十三才で没する。
 
 易経には、「楽天知命、故に憂えず」との名言も残っている。これは、「天命を信じるが故に天命を楽しむ。その心構えができた時に人の憂いはなくなりますよ」との意味です。この心境まで達観できれば、最高でしょう。

立命とは。
 人生とは最初から運命は決まっているという宿命を訪ね歩くものではなく、自らの意志で運命を打ち立てることを立命という。努力次第で千変万化・創造できるのが人生であると教えるのが立命観です。

運命とは。
 命を運ぶと書き、常に活動して動いて変化して止まらないものをいう。「命」は必然で絶対的なもので人間のわがままを許さないもの。「因果の理法」を含んでいる。この理法を「数」といい、命数・命理・数理ともいいます。

 最後にまとめますと①~⑥の6つの命を通じて、「命」を探究し我々の「人生をいかに生きるべきか」の行動実践としての学問となって行きました。これを2500年以前から探求され体系となったものを「人間学」といいます。義理の学、義命の学ともいいます。

 「人間学」では「修己修身」「修己治人」「修己知命」「楽天知命」等がメインのテーマであります。なるべく人生の早い時期に「人間学」にふれられて、自己の人間観・人生観・宇宙観を確立なさる道具となさることを提言したいと存じます。私の反省をふまえまして・・・・。
 
 人はいつかは必ず鉄と同じようにサビついて切れなくなる時がやってきます。今はピカピカでサビついてなくても、いつかはおとずれるものであります。よって、心を研(磨)くための道具(砥石)がどうしても必要であります。
 
 21世紀は物質面より人間系を中心とした学問が主流になりつつあるのを少しずつではありますが感じております。

 今回のテーマは、私自身にとっても大きすぎて、深すぎてまだまだ探求中であり、生涯を通しての大テーマであります。皆さんとご一緒に探求していきたいと念じております。
 
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2011/01/22(Sat)

(No.90) 保有能力と発揮能力はどの様に違うのか?(1/2)

 管理者や社員の能力向上について経営者の方々はいつも頭を使われていると存じますが、基礎的な要素について考えてみたいと思います。

 まず能力について、それには2種類があります。保有能力と発揮能力の2種類です。

 保有能力とはその人が保有している能力であり、特定の知識を身に付けている状態、あるいは特定の技能・スキルを身に付けている状態であれば、その能力を保有している、即ち保有能力があるということができます。

 これに対して、発揮能力とは保有能力のうち発揮しえた能力のみを指します。たとえ高い能力を保有していたとしても仕事を遂行する上において、その能力を効果的に発揮しないことには発揮能力がないと判断される訳であります。

 保有能力を効果的に発揮するためには、知識なり技能といった保有能力を、本人がその気になりさえすればいつでも自由に使いこなすことができるように習慣として身に付けている状態でなければなりません。さらに、本人が保有能力を真に発揮しようという心なり気力といったものを持たなければ、現象として現れる発揮能力にはなりえないということになります。

 従って外から眺めていて、保有能力とは、「彼は昔この様な職種を体験していたので、おそらく何々ができるであろう」とか、「彼は出身校はどこを卒業しているので、おそらくこの様なことは知識として保有しているはずだ」とこの様な状態を意味するものであります。
 
 また、発揮能力とは、一緒に仕事をやってみたり、その人の上司や周りの人々からの評価の言葉の中で、「彼は何々を常にやっている」とか、「彼は何々はいつも仕事上で出来ているとか出来ていない」とかの状態を意味するものであります。

 以前、当経営コラム№47でもふれましたが、学校現場とはまるっきり求められるものが違い、経営や仕事の現場では、実践や行動が求められるため、いかに実行力や発揮が大切であるかということなのです。古い言葉を使えば“知行合一”という考え方で、「本当に知るとは必ず実行が伴うものである」ということを意味した教えであります。また、いかに実践行動が難しいものであるかを示唆しているものでもあります。

 現在の日本は、戦後の教育制度の改革で、知識主義に価値を置き過ぎたため、頭でっかちであり、高学歴主義が続き、たくさん暗記している人が試験にパスしてエリートになる時代が長く続いている様な気がします。

 今まで述べた保有能力を身に付けた状態で、発揮能力まで進まずに宝の持ちぐされや実行にまで移されていない事柄やテーマがあまりにも多過ぎる様な状態ではないかと思っています。宝の持ちぐされの状態である保有能力をいかに発揮能力まで高めるかがポイントになってくると思われます。


(次回に続きます)
 
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2011/01/29(Sat)

(No.91) 保有能力と発揮能力はどの様に違うのか?(2/2)

 私は、簡単に能力を2つに分け、保有能力と発揮能力と説明致しましたが、一気に発揮能力まで高まるのではなく、保有能力からスタートして発揮能力へと進んで行くものであります。

 例えば、小さな事例で説明しますと、ある人が専門用語や公式や理論を知らない状態だとします。上司や管理者は、知らないから、知らせるもしくは教えることになります。その人は、知らない状態から、知っている状態にステップアップします。次に管理者の行動は、本質やコツや目的などを理解させるという仕事が続きます。その部下は、知っている状態から理解している状態へと更にステップアップします。今度は、理解している状態から、その部下が、実務や仕事の場面で使える、またはできるようにする実習や演習をする必要が生じます。単に頭の中にあった識の変化から、技能面への変化へと向上が見られる段階まできました。

 いよいよ次は、あることができる状態から、実務や仕事の場面で実行させる、実践させる、活用させる、という仕事が待っています。この段階で少し背中をポーンと押してやったり勇気付けや動機付けをすることも同時に必要になるでしょう。いよいよその部下に、態度や行動の変化が見られるようになってきました。この状態が発揮能力という言葉が当てはまる状態であります。ここで終わりかというとそうではありません。

 部下は実行しているという状態ですが、常に続けている、継続しているという状態まで習慣化はできていないのです。管理者はその部下に対して、続けさせる継続させる、いつでもことさらに意識することなく、当たり前になっている、もしくは習慣になるまで指導する仕事が待っているのです。そのプロセスや段階を経て、その人は、行い続けている状態、習慣になっている状態に至る様になり、育成ができ、今後も成長が続くように変化進化創造が続けて行けるようになります。いかに実践行動が難しいかをご理解頂けたものと思います。

 この事例のステップをまとめると次の通りであります。
 ① 知らない     → 知らせる。教える  (保有能力の段階)
 ② 知っている   → 理解させる      (   〃   )
 ③ 理解している  → できるようにする   (   〃   )
 ④ できる      → 実行実践させる    (発揮能力の段階)
 ⑤ 実行している  → 続けさせる       (   〃   )
 ⑥ 続けている   → 習慣にさせる      (   〃   )

 この①~⑥のステップを車の免許を取って日頃運転するケースや皆さんの企業でいろんなケースに当てはめて考えられると、全て応用や対応ができますので、ご活用頂ければと存じます。また、家庭内のお子様の育成やスポーツにも応用ができるステップであります。

 経営者や経営陣を育成するのも同じ様な考え方が基本的には応用できるものであります。が、ただ経営者・社長としてリーダーシップを発揮するには、経営学だけの発揮能力では、人や部下や組織を統率するというわけにはまいりません。

 常々私が提唱してます様に、経営学は時務学(当経営コラム№44参照)の一部分に過ぎず末であり、どうしても本となる人間学を身に付け人間力を磨かないと一人前で立派な経営者はできそうもありません。本あってこその末であります。

 社長業を立派に務めるには、管理者や社員の発揮能力以上の発揮能力が求められるため努力する時間も格段に多く必要となるのであります。当然ですが、社長の地位についてからでは、相当時間がかかります。その様な方は一般的には人の10倍の努力が必要になられるでしょう。

 理想的には、社長になられる十年位前から準備なさることを提言致します。後継者の育成には、あまり知られてませんが最低十年はかかるのであります。地位の承継だけなら明日でも可能でありますが・・・・。
ご一考を。
 
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