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    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

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2011/08/06(Sat)

(No.118) 「吉と凶」を決める「悔と吝(りん)」(易経に学ぶ) (1/2)

 ある物事が起きたときに、何がきっかけで、その物事が吉になったり、凶になったりするのでしょうか?易経には「吉凶とはその得失をいうなり」と書かれています。つまり吉は得ること凶は失うことだといっているのです。

 春に種を蒔けば実りを得ることができますが、実りを得るとは結果を得るということですから、吉は結果を得ることができるという意味になります。

 反対に凶は冬の氷の上に種を蒔いても実らないし、いい種でも腐ってしまいます。これが結果を失うという意味になります。別の表現をすれば、「吉は通じる亨(とお)る」、「凶は通じない亨らない」といえます。
 
 春に種を蒔いたら、それは「通じる」から秋に実りを得られる、亨る。冬の氷の上に種を蒔いても「通じない」から実らない、亨らない。吉と凶とは、たったこれだけのことですと書かれています。現代のように、吉と凶を善い結果、悪い結果とは考えてはいないのです。

 それでは、その吉と凶の分岐点や変わり目は一体どこにあるのでしょうか?吉と凶は結果からすると正反対のものです。
 
 ひとつの事例として、ある些細なトラブルが起きたと仮定して考えてみましょう。この最初に起きた些細なトラブルを凶とも見ないし吉とも見なしません。それが吉となるか凶となるかは、この後に決まるといっています。
 
 では何によって決まるのかというと、「吉凶の分かれ目は悔吝(かいりん)にある」と述べています。つまり結論として、吉凶の境目は悔と吝にあるといっています。この文章は少し理解するのが難しいと思いますので、どのような意味なのかを説明したいと思います。

 例えば、ある物事が発生したとき、「まあ、このくらいのことは大したことじゃない」と考えたとします。これを「」といいます。吝とは“吝嗇(りんしょく)”という言葉があるように「ケチる」「惜しむ」という意味です。つまり今までのことを反省し後悔して、その流れを変えることや、やり方を変えることをためらったり、惜しむことが「吝」の意味であります。

 一方の「」は「後悔する」という意味です。後悔するのは、何故それが発生したのかが想像できたり推測できるからであります。物事の起きた原因や理由がわかるのですから、もし今後もそのままで放置していたら、将来何が起きるかが予測できるわけです。
 
 もうひとつ事例をあげますと、ある企業で、提供している商品に小さな欠陥が見つかったとします。この時に「これはこのまま放っておけば大変なことになる。最悪時は人身事故にもつながりかねない」と予測ができます。そして将来を想像して恐れるのです。法律的に正しいか否かではなく、このトラブルが何を教えようとしているのかに気付くわけです。

 この様に、ほんの些細な現象や出来事を「兆し」(当経営コラムNo.113No.114参照)として観ることができたとしたらそれを放置しておくと、どの様に推移していくのかの予測がつくのです。その時に「しまった」「対応が甘かった」「やっぱりあの時、手を打つべきだった」「準備不足だった」と恐れ震えるがごとく後悔する人ならば、必ず改めることができると教えています。この悔い改めたときに流れが変わっていくのです。

 しかし、改めたからといって、すぐに状況が好転するわけではありません。それまでの膿がたくさん出てきます。流れを変えること自体に強い抵抗があるかもしれませんし、費用もかかるかもしれません。従来の流れを切り替えるのは大変なことなのです
 
 今のままなら利益が上がるかどうかも分からない、公表すればマスコミに叩かれるかもしれないと色んなマイナスの要素が頭の中をよぎります。でもその時に本気で後悔したのなら、どんなに厳しかろうが大変であろうが、ゆっくりゆっくりと吉に近づいていくと教えています。そして結果的には、ある一定の時間と量が飽和状態に達したときに」になると教えているのです。

 (次回に続きます)
 
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2011/08/13(Sat)

(No.119) 「吉と凶」を決める「悔と吝(りん)」(易経に学ぶ) (2/2)

 逆に「」の方は、この逆の道を行きます。「まあこれぐらいのことは大したことはない。今までも、このまま何とかやってこれたんだし、そんなに大きな問題にはならないだろう。大丈夫だ」と考えて、改めるのをためらい、惜しみ、手を打ちません。何ら行動しようとしません。

 その結果現状のまま、ズルズルといくわけです。この場合の「大丈夫」は、まったく気が付かない場合もありますが、実際にはハラハラしながら自分をだまして「やり直すとお金がかかるし得意先への説明も大変だ」などと考えて、改めるのを惜しんでしまうのです。「」の状態に止まってしまうのです。

 しかし、気が付いて何も手を打たなくても、すぐには「凶」にはなりません。しばらく平穏無事に過ぎていきます。が実際には、その間に繰り返し繰り返し何度も何度も“兆し”という形で注意信号が送られてきます。
 
 それでも悔い改めることを惜しんでいるとある一定の時間と量の飽和状態に達したときに突然「」になっていきます。つまり不祥事として外部に露見することになるわけです。
 
 「凶」になると人間はどうしようもなく悔います。「しまった、あの時本気で対策を講ずればよかった」「もうこれではどうしようもない」と後悔します。
 
 それでまた心をいれかえて懸命にやり直していけば流れは変わっていきますが、いったん不祥事が明らかになってしまった場合に、そこから(元の状態に)回復するのは、かなりの長い時間と大変な労力を要します。会社が潰れる場合もあります。

 以上の説明が「吉凶悔吝」の教えであり、「吉」と「凶」の境目について書かれている部分です。この教えは、日頃の経営実践において応用が充分できるものであり、経営体質全体にわたり活用できる重要であり又素晴らしい教えであります。実務で活用なさって経営体質の改善や強化にお役立て頂ければ有難いと思います。

 そもそも経営体は規模の大小にかかわらず利害関係者(ステークホルダー)が必ず存在しています。社外社内様々な関係が複雑に関係し合っている集合体です。どの企業も多かれ少なかれ各種の問題や課題(解決すべきテーマや事柄)を抱えている集合体でもあります。

 例えば、営業、生産(仕入・外注含む)、企画開発、人事、財務、経営者リーダーの力量、人材の質と意識、経営手法とそのトータルの結果である業績など広い領域で仕事が進められています。ひと言で言い表せないほど複雑であります。

 だからいつ何時、どの領域でどんな問題が発生するか的確に予測することはなかなか難しいものです
問題発生を恐れる必要はありません。なぜなら問題や悩みというのは、あらゆるものを成長発展させるための原動力でもあるのです。

 それらがあってこそ、どうしようかと考えて、そこからいろんなものの発展変化成長が出てくるものだからです。決して問題や苦から逃げないことです。逃げないで受けて立つということがリーダーの永遠の条件であるでしょう。そのために、問題の前にたじろがない強い精神が必要になります。

 現代人は、苦や問題から逃げ過ぎているようです。問題から逃げるから、問題につきまとわれるのです。逃げ回って何かと言い訳をつくるのは大体、理性型の経営者、人間が多いようです。頭でっかちで知識が豊富なので、言い訳が多すぎるようです。
 
 何があっても、ひるまないことです。襲い来る問題には必ず答えがあります。答えがでるまであきらめてはいけません。 “兆し”を観る目を身に付けておりさえすれば、何に対しても対応が可能になります。

 最後に、本日のテーマである「吉凶悔吝」の教えを身に付けて頂き、「悔」に心がけ、「吉」に向かった道のりを歩かれんことをお願い致します。
 
 くれぐれも「吝」にこだわり、固執して「凶」の道にだけは進まれませんように、心して頂きたいと存じます
「吝は凶の兆し」であり、「吝」を思えば「凶」に至る。「悔は吉の兆し」であり、「悔」を思えば「吉」に向かいますと教えているのです。ご活躍を心から期待しております。

 
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2011/08/20(Sat)

(No.120) 心と魂はどう違うのか?

 心というものは、わりと外の刺激によりコロコロと変わるもの、だからコロコロが心の語源であるともいわれています。一日に何十回何百回と変わるものそれが心といわれてます。

 喜怒哀楽という言葉があるように、嬉しい時、楽しい時には喜びの心、楽しい心が生じ、気に入らない言葉をあびせられたり、聞いた時に怒ってみたり、カッカしてみたり、悲しい時に遭遇したら悲しんだり、涙を流して泣いてみたりと人間の心や感情は、外の刺激によって反応するもので一日に何回となく変化するものであります。心が変われば顔の表情や動作までも連動して変化するものであります。

 その心に対して、その絶えず動いている心の奥底に、どんなに外界の刺激を受けても変わらないものが存在しています。それがであるといわれます。

 「心身ともに」といいますが、その相関関係のもっと深い根底で働いているもの、要するに命の根源にあるものが魂であると言えると思います。

 昔のことわざに、「三つ子の魂百まで」と言い伝えられてます。この意味は、三才ぐらいの幼少時代に身についた性格や心情はなかなか変わるものではなく死ぬまでずっと続くものと解釈してよいと思います。命の根源にある魂だからこそ死ぬまで持続できるものと考えられます。

 だから「三つ子の百まで」とは言わないのですね。昔の人達は、「心は変化し、年令や体験や学問することによって成長するものだ」ということをすでにつかんで、分かっていたのでしょう。ただただ頭が下がるばかりであります。

 現代においては、なまじ科学技術が発達して、魂のような目に見えないものの存在は証明できないからといって認めない風潮があります。しかし将来は、科学・医学・脳科学のさらなる進歩で証明される時が実現するかもしれませんね。

 少し横道にそれるかもしれませんが、そもそも私たちの命や生命は、自分の意志で創造したものではなく、何らかの存在や働きで他から授かったもの、与えられたもの、お預かりしたもの、他力で生かされているものであります。

 宇宙でも天でも神でもよいでしょう。人智を超えた、人智などでは到底及ばない大いなる存在、サムシンググレートからの一時的な借り物と考えて良いと思います。その証拠に、私達は意識しなくても心臓は動いて呼吸をしています。他の力がそうさせているのです。

 そして時期が来たら命や生命を終えて、この体を貸し主にお返しをすることになります。では借り主である私とは一体誰なのか?一体何なのか?という疑問が生じます。やはり肉体という個体が消滅しても残る存在があるのではと考えてしまいます。

 簡単に消滅するものではなく、永久に存在するから貸してくれたのではと考えてしまいます。ひょっとしたら、先述した魂であり、真の私であり、この個体の借り主ではないのだろうか?と考えたりしています。非科学的な表現になり申し訳ありません。
 
 「霊魂不滅」という言葉があります。昔の人は魂は肉体が滅しても残るものと考えていたんでしょう。命や生命や生きている状態は有限です。滅したら再び生き返ることは決してありません。また、滅して死んでいる状態は無限で永遠であります。

 死とは無限で永遠の状態が続くものという視点で、魂とか霊魂は不滅であると考えたのかも知れませんね。だから「霊魂不滅」と呼んだのかも知れません。

 最後にまとめとして。

 魂は生まれて間もなく備わるもので、固定化されたものであり、成長に従って魂を動かすことは難度が高いものと言えます。それに反して心というものは、大いに変化するものであります。年令に応じて、自助努力や修養することにより心を大いに成長発展させることが可能であります。

 「人生の目的は心を高めることである」とも申します。現在の年令にかかわらず志を固めそれを信念にまで高め、哲学的武装をして経営や仕事にまい進して頂ければと念じております。

 [ 補足 ] 心に関する格言を参考として

 ・心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな
 ・心ここにあらざれば 視れども見えず 聴けども聞こえず
 ・おもしろき 事もなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり
 ・人生は 心ひとつの 置きどころ 良くも悪くも 使い方のみ
 ・心こそ 大きくできる  宇宙より 大きな心 小さな体 
 ・心こそ 常に積極 一辺倒 これが出来れば 鬼に金棒
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2011/08/27(Sat)

(No.121) 感性と感動こそが意欲と志を育む原動力 (1/2)

 科学は「理性」(知識や理論や論理のこと)が、芸術は「感性」が中心となっています。比重こそ異なってますが、科学も芸術も共に理性と感性のバランスで成り立っていると言えるでしょう。また、科学や芸術に触れる者を奮い立たせているのは「感動」であります。

 最近、科学や医学の発達により、脳を測定することによって人間の心のメカニズムが昔に比べると格段によくわかってきました。
 
 理性は大脳新皮質(言葉や言語、知識の記憶をつかさどる)の働きであり、感性は大脳辺縁系(情動・意欲・行動をつかさどる)の働きであります。

 また、感動は島皮質(側頭葉に隠れた内側の部分)の働きであります。その島皮質は体全体の状態を監視する部位であるため、感動とは身体反応と脳との共鳴現象である可能性が高いと言われています。

 一般的に何かに感動して鳥肌が立ったり、涙が出たりすると、脳はそれを強く受け止めてさらに深く感動を享受して脳を極限まで活性化すると言われています。

 ちなみに、「感動」という日本語は感即動から変形した単語で論語から出たことばであります。感じるとは、即ち、動くことであり、また、感じて動かされることで“動”の方にウェイトがあります。

 脳の計測法の発展によって、複雑な神経系統のつながりや、普段の私達の日常生活での脳の働きも昔に比べるとよくわかるようになったと言われます。科学の進歩の力添えで医学や脳科学は格段の進化が見られるようになりました。

 昨今は感動することが減少していると感じているのは私だけでしょうか。知識や理論武装をした理性型の人間が増え、頭でっかちで、何事にも論理が優先しクールでさめている人が増えているのではと感じています

 私自身を振り返っても何事にも感動していた子供時代のような心をなくし、年を重ねるにしたがって純粋さを失って心の底から感動することが少なくなってしまったような気がします。

 物質至上主義、金銭至上主義、知識至上主義、理性・知性万能主義が蔓延した結果、感性が鈍くなった時代に突入しているのではと危惧しております

 21世紀は理性と感性の協創が求められる時代といわれ、理性だけでは生きられない時代ともいわれています。感動こそが意欲と志を育む原動力といわれています。何事にも感動することを心がけ、より熱い意欲と志を持たないと、日本の未来を創っていけないのではと危惧しております。

 意欲もなし、無気力、無感動な人が多くなっていき、将来を創っていけるのかと心配している昨今であります。
 
 21世紀に入って早や10年があっという間に過ぎ去りました。世界を眺めて見ますとまさに激動の時代と言ってよいと思われます。人類史始まって以来の劇的変革期にあると言えます。激動の時代というのは、あらゆる面でまさに歴史的変革を求められているのです。

 理性中心で約2000年を経た時代が過ぎ去り、今後は変化を求める感性の時代、感性中心の時代に突入したと考えてよいと思います。

 (次回に続きます)
 
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