• プロフィール

    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

  • 検索フォーム

  • QRコード

    QRコード
  • FC2カウンター


2012/02/04(Sat)

(No.144) 運命は変えられるか?成功さえも“試練”である(2/2)

 前回、幸運だけの波は存在しないし、不運だけの波も存在しないと述べてきました。
もっと言及すれば、失敗(悪い運命)だけが試練でなく、成功(良い運命)さえも試練であると言うことができるでしょう。
 
 従って、「試練」とは、一般的にいわれる苦難のことだけを指すのではないと考えられます。
人間にとっては、成功さえも試練の一ではないのか、と思えることです。

 例えば、ある人が仕事で大成功をおさめ、地位や名声、財産を獲得できたと仮定します。
人はそれを見て、「なんと素晴らしい人生だろう」と羨み尊敬されることでしょう。
ところが実は、それさえも天が与えた厳しい「試練」の一つと考えられます。

 その理由は、その人が成功した結果、地位に傲り、名声に酔い、財に溺れ、努力を怠るようになっていくのか、それともその人が成功を糧にして、さらに高い目標を掲げ、謙虚に努力を重ねていくのかによって、その人のその後の人生は、天と地ほどに変わってしまうのも事実であるからです。

 つまり、天は成功という「試練」を人に与えることによって、その人を試していて天の試験を課しているのでしょう。
いわば人生は、大小様々な苦難失敗や成功の連続であり、苦で悲観したり、成功に楽観したりするものですが、その人にとっては、そのいずれもが「試練」に当たるのです。

 そして、私たちの人生は、その人生で織りなす「試練」を、どのように受け止めるかによって大きく変貌していくのです。例えば強い人は苦難に遭遇しても、「これは天から試験をされているんだ」と考え元気が体中から湧いてくるのです。弱い人は自暴自棄になったりします。
 
 この様に受け止め方一つでベクトルが180度違ってくるのです。いかに日頃の生活において、ものの見方や考え方(見識)を広め深めて、実践力を伴う胆識を養っておくことが大事なのかということであります。

 私たちは、苦難・失望落胆あるいは成功・得意絶頂、そのいずれの「試練」に遭遇しても、決して自らを見失わないようにしなければなりません。順境逆境を越えなければなりません。
いかに環境が順であれ逆であれ、翻弄されず右往左往しない精神力を養わなくてはなりません。

 つまり、苦難に対しては逃げずに、真正面から立ち向かい、さらに精進を積む。また成功に対しては謙虚にして傲らず、さらに真摯に努力を重ねる。
そのように日々たゆまぬ研鑽に励むことによってのみ、人間は大きく成長していくことができるのです。
 
 私は、現代の混迷した社会を思うとき、私たち一人ひとりが、どのような環境に置かれようとも、
自らを磨き、人格を高めようとひたむきに努力し続けることが、一見遙か遠くに思えても、結局は社会をよりよいものにしていくのだと信じております。

 最後に。昨今、政治をはじめ、日本企業の行動が世界に及ぼす影響というものが、従来とちがって格段に大きくなってきています。日本の指導者や経営者の責任が、今日では世界的に大きくなっていると感じています。

 このような環境のなかで正しい判断をしていくには、指導者や経営者が、自身の心を磨き、精神を高めるよう努力する以外に道はないと考えています。

 人生の成功不成功のみならず、経営の成功不成功を決めるものも人の心です。
私は、職業体験を通して人の心が経営を決めることに気づき、それ以来、知識技術テクニックのみの時務学に偏るだけでなく心や人間力をベースとした経営助言提言を実行してきました。

 経営者の日々の判断が企業の性格を決定していきますし、経営者の判断が社員の心の動きを方向づけ、社員の心の集合が会社の雰囲気、社風や企業文化・組織風土を決めていきます。(経営コラムNo66~70参照)
このように過去の経営判断が積み重なって、現在の会社の状態ができあがっていくのです。
 
 そして、経営判断の最後のより所になるのは経営者自身の心であり、人間力であることは、経営者なら皆痛切に感じていることだと思っています。感じておられない人は、まだまだ人物が深まっていない証左で「修己治人」の余地があると言うことでしょう。一歩ずつコツコツとお互いに鍛錬していこうではありませんか。

 ちなみに「修己治人」とは、自身を磨きめて、それから先がや組織をめ、統率することであり、人間学の眼目であります。(経営コラムNo49参照)

 「人間力を高めよ、それから先が部下の指導や組織の統率であり、経営であり事業であります
  
Home | Category : 経営学 |  コメントアイコン Comment0  |  Trackback
2012/02/10(Fri)

(No.145) 人物を知る観察法にはどんな方法があるのか?(1/3)

 昔から、「その人を知らんと欲せば、まずその友を見よ」と言われていますが、大いなる真理があると思います。参考ながら、森信三氏(1896-1992国民教育の師父と呼ばれる)は、人を知る標準として、次の五つを挙げられています。

 第一には、その人がいかなる人を師匠としているのか?
 第二には、その人がいかなることを、自分の一生の目標としているか?
 第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかという今日までの経歴は?
 第四には、その人の愛読書がいかなるジャンルの書物か?
 第五には、その人がいかなる友人を持っているか? の五点であります。

 大よそ以上五つの点を調べたならば、その人がどの様な人間であり、将来いかなる方向に向かって進むかということも、大体の見当はつくと氏は言われています。

 しかしながら、よく考えてみますと、いま挙げたようなもろもろの点は、結局は一つの根本に帰すると思います。なぜならこれら五点はすべて相互に関連していると思われるからです。以下に一つずつ見ていきましょう。

 たとえば、第二番目の、自分の一生の目標を何と立てるかということも、結局はその人が、第一番目の、の人格や生き様に出会って初めて見出されるものであり、人間はをはなれては、生涯の真の目標も立たないと言ってよいでしょう。

 この場合の目標とは、よく言われる数年後の実現したい状態で、ビジョンと呼ばれるものではなく、何に命を懸けるのか?何に命を使うのか?という人生を懸けた使命に近いもので、ミッションと呼ばれるものに近いと思います。

 自分の一生の目標というテーマは、我々一人一人にとって最大かつ最重要なテーマであるでしょう。

 そのためには、歴史を学び、偉大な人物や師に巡り会わないと、人間いかにあるべきかいかに生きれば良いのか?生き甲斐のある人生とは何か?などの見識にふれることなく、ただ何となく、組織内で出世して地位や収入が上がり、「楽しんで生きれば良い、俺はそれで幸せなのだ」との考えで生活している人が多いのではないでしょうか?

 名利(名誉と利得)は大切なことではありますが、それは手段であり人生の究極の目的にはなり得ません。残念なことに、目的と手段を転倒させて生きている人が圧倒的に多いと思います。

 第四番目の、どの様な書物を愛読するかということも、結局は第一番目の師の教えに導かれて感化を受けて、おのずから見えて来ることでしょう。(経営コラムNo105参照)

 また第三番目の、その人の過去の経歴というようなことも、その人が第一番目の、自分の師を発見しない間は、いろいろとさまよって紆余曲折もあるでしょうが、ひとたび心の師が定まって、第二の魂の誕生(肉体は第一の誕生です)を迎えたあかつきには、迷いもおのずから少なくなり、また自分一人では決し得ないような大問題については、師の助言などを仰いで身を処しますから、結局大したつまずきもなく人生が進んでいくものでしょう。

 そして第五番目の、友人関係において、真に尊敬するに足る友人とは、結局は人生の友ということでしょう。 人生の友ということになると、結局は第一番目の、師を共通にして価値観を同じくする場合が多いのではと思います。

 つまり同門の友というわけですが、現代を眺めてみますと昔とは様変わりで、そのような関係は学生時代には成り立っても一旦社会人になれば、人それぞれ、いろんな環境や立場があり、価値観が少しずつ、ずれてくるものでありますでしょう。

 親しい友人といっても、ただ一緒に飲んだり喰ったり遊んだりの仲間であり、生涯を通しての人生の友を見つけるとなると、なかなか大変なテーマであるでしょう。

 これまでの結論として、いかに真の師にめぐり会うことが、人物をつくる、人をつくる、人生をつくるという視点でみると非常に重要であるということであります。

  師とは現存の人物だけではなく、もちろん歴史上の人物でもかまわないわけであり、人それぞれ秘かに心の中で私淑して良いのは申すまでもありません。

(次回に続きます)

  
Home | Category : 人間学 |  コメントアイコン Comment0  |  Trackback
2012/02/18(Sat)

(No.146) 人物を知る観察法にはどんな方法があるのか?(2/3)

 前回の森信三氏に関する考察にかわりまして、東洋には彼以外にも、人物観察法のおもしろい古典があります。中でも優れた例として「八観法」と「六験法」を二週に分けてご紹介したいと思います。

【Ⅰ】 【人物をみる八観法とは?】

ずれば、その礼するところを観(み)る

 通とは行き詰まらずに、すらすらと行くことです。 少し自己がうまく行きだした時、仕事などが、すらすらとうまく行き出した時に、その人がどういう 事を尊重するのかを観ます。お金か地位か、知識か、技術か、自己の能力向上に投資するのか、志や使命の達成のために何をするのか、ということを観るものです。金や地位や名誉を礼する尊重するだけでは、その人の魅力は出てこないものでしょう。

(たか)ければ、その挙げる(薦めるところを観る

 出世し地位が上がるにつれて、どういう人間を推薦するか、その用する人間を見てその人物がわかるというものです。「地位や権力の力に頼る武人に位を与えてはならない。貢献した人には金銭的な褒賞恩賞を与えよ。さもなくば組織が壊滅する」といわれています。登用は慎重にせよと言うことです。(経営コラムNo96参照)

めば、そのところを観る   

 金ができると何を養い出すのか。これは誰にも分かりやすいことです。たいていは着るものを買う、家を建てる、買うなどが一般的でしょう。その他では、物 車 資産運用 財テク 女性 酒 道楽などがあるでしょう。身の丈を誤ると破綻することもあります。資金の運用は誠に難しいものであります。

 収入さえあれば貯蓄は誰でもできますが、例えばあなたが、10億所有すると仮定すれば、何に運用するでしょうか?ウーンと考え込むほど即答は難しい設問でしょう。とっても難度が高いテーマですね。

  現代は6の力量で7~8の収入・金を求め9~10使う生活が多い様ですね。ローンなどを組んでいます。かく言う私もそうであります。 本来は10の力を提供して8~9の収入を得て、6~7の消費で2余る生活をお勧めしたいです。

けば、そのところを観る  
 
 善いことを聞いたら、それを実行するかどうかを観ます。知行合一するか、あるいは矛盾するかを観るものです。なかなか実行するとなると難しいものです。本当に知るとは実践を伴うことを言います。よって実践を伴わないのは本当に知っているとは言い難いのです。有言不実行もダメでしょう。「言うは易く行いは難し」でしょう。

えば、そのところを観る

 習熟すればその人間の言うところを観る。話を聞けば、学問がどの程度身に付いているか、その人の人物・心境が良く分かるものです。その人の言うところは、自己を告白しているのと同であります。 こちらから求めずとも話を聞くだけで分かるものです。

 「一言事を破る。一言人を誤る」との格言もあります。口で発する言葉は人間を決定づけるものの一つであります。「口は禍いのもと」と同時に「口は福のもと」とも言われています。(経営コラムNo132参照)

まれば、そのところを観る

 この「止まる」は俗に言う「板についてくる」という意味です。一人前に仕事ができるようになると、何を好むかを観ると言う意味です。

すれば、その受けざるところを観る

 人間は貧乏すると何でも受ける、欲しがるものであります。何でも欲しがるというような人間は駄目です。貧乏したときに何を受けないかを観ることです。

すれば、その為さざところを観る

 人間は窮すれば何でもやる、恥も外聞もかまっておられぬ、というふうになり易いものです。また人間、落ちぶれて追い込まれると何をするかわからない。だから為さないところを観るということです。「窮鼠猫を噛む」とも言われています。

 以上の八つですが、どれも、なかなか辛辣な人物観察法であります。自分に当てはめて考察してみるのも何かの参考や気づきになるものと思われます。

(次回に続きます)

Home | Category : 人間学 |  コメントアイコン Comment0  |  Trackback
2012/02/24(Fri)

(No.147) 人物を知る観察法にはどんな方法があるのか?(3/3)

【Ⅱ】 【人物をみる六験法とは?】

 前回の「八観法」に続いて、「六験法」を紹介します。これは相手の感情を刺激することにより、その反応を観察して人物を観る、人物を験(ため)す方法として有名です。

① これを喜ばせて、もって、その守を験(ため)す

 喜ぶという感情は人間をウキウキさせ、つい、いい気持ちで調子に乗って羽目を外し、守らなければならないことを忘れてしまいがちです。人間は嬉しくなると羽目を外すものです。しかし、人間には守らねばならない分とか節があります。大人には大人の、子供には子供なりの、上に立つ者は上に立つ者なりの、部下には部下なりの、決してはずしてはならない大事なことがあります。それをちょっと喜ばされたくらいで外してしまうようでは、人間として落第であります。
  
② これを楽しませて、もって、その僻(へき)を験す

 喜ぶと楽しむは、どう違うかというと、“喜ぶ”は本能的感情、“楽しむ”とは理性の加わった場合をいいます。喜びの本能に理性が伴うと、これを楽しむといいます。音楽や絵画を楽しむのは理性が発達して起こる感情ですから、これは楽しむ方です。人間は楽しむと、どうしても僻(へき)する、かたよるものです。あまりかたより過ぎますと公正を失ったり公私混同したりして、物事がうまくいかない事がおうおうにしてあるものです。
  
③ これを怒らせて、もって、その節を験す

 怒りは感情の爆発でありますから、人間の節、しめくくりを吹っ飛ばしてしまいます。感情が爆発すると人間何をしでかすか分かりません。すぐキレル人はいけません。人間はどんなに怒っても、締まるところは締まり、抑えるところは抑えなければいけません。忍し耐えて辛抱する人でないといけません。辛いでしょうがどんなに罵倒されても耐えることです。(私が常にできている訳ではありませんが・・・)
  
④ これを懼(おそ)れさせて、もって、その独を験す

 人間、恐れると何かに頼りたくなって 一本立ちができなくなるものです。独立性、自主性、自立性を失ってしまいます。
  
⑤ これを哀しませて、もって、その人を験す

 人とは人間の全体的な反応、つまり人柄のことです。人間は悲しい時にその人のすべてがあらわれるものです。人物をみるのは哀しませるのが一番といわれます。 ③④⑤三つ合わせて、「怒らず、恐(懼)れず、悲(哀)しまず」の三勿(さんこつ(三つのなかれの意)であります。
  
⑥ これを苦しませて、もって、その志を験す
  
 人間は苦しいことにぶつかると、つい、へこたれがちになるものです。志とは千辛万苦に耐えて自分の理想を追求してゆくことであります。 よく苦しみに耐えて努力し、理想を追求してゆく様な人間なら、まず間違いはないと思います。苦に耐え、冷に耐え、煩に耐え、閑に耐えることです。四耐(したい)と言います

 上記のような、これらの観察法を通して人間を観ますと、実に良く分かるものであります。意外な所に目が光っています。すなわち人は見ているものなのです。ごまかしの利かぬものであります。

 これを自分に応用すれば非常に自己の陶冶、鍛錬、修養にもなるわけであります。他人を観るのと、またご自分を観る・知るのにご活用下さい、きっと何かの気づきが得られるものであります。

 以上が「六験法」の説明でしたが、この中には出てきませんが「酔中の言」というものもあります。お酒を飲んで会話した時などに、話したり聞いたりしたものは、案外確かなものですよという意味です。


  人間は酔えば理性が麻痺するために,腹の中で思っていることや本当のことや本音を言うものです。この酔態の中に、よくその人物を観ることができるのも事実であります。人間の言葉で案外確かなものは酒の席でも聞こえるものです。お互いに注意してお酒はいただきましょう。理性のコントロールがきかなくなるまで飲んではいけないと言うことでしょう。

Home | Category : 人間学 |  コメントアイコン Comment0  |  Trackback
Home Home | Top Top