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    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

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2012/03/03(Sat)

(No.148) なぜ感性は力なのか?(1/2)

 「考え方が人間を決めるのではなく、感じ方が人間を決める」のです。

 読み替えれば「理性で人間が決まるのではなく、感性で人間が決まる」となるでしょう。     
まだまだ現代は、理性が大手を振って歩いている社会ですから、一般的には、ほとんどの人は気がついていない様です。

 幸せとは知覚現象ですから、「物や物質があるから、または所有しているから幸せであるのではなく、感じるから幸せなのである」これが本当なのですが、本質は同じことを指しています。
つまり理性より感性の方が大事なことを言っています。

 理性である、知識や知性・論理・法則・原理などの考え方に支配されれば、理性の奴隷になり、血の通った温かい心が消えてしまいます。そこには理性の恐さがあります。
よって、理性では決して人間を救うことはできないと言われています。21世紀以降は、感性こそが人間や企業を救う力になると思います。

 経営活動では、経営者・社長・トップリーダーの保有している経営知識や技術たけでは決して企業を救えないとお考え下さい。
人間力という情けの力や感性の力が今こそ必要な理由であります。
ではなぜ感性は力なのか?について考えてみることにします。

 本来理性は冷たく感性は温かものです。又、理性は嘘をつくことができますが、感性は嘘をつくことができません。理性とは作為的で技術的で技術の能力なのです。
 
 現代は理性に幻惑されすぎています。理性こそが最大で最高のものだと錯覚しています。病人が増えるのも当然の結果でしょう。様々な悲しい社会的な大事件なども多発しています。みんな理性至上主義の弊害だと考えて良いでしょう。
人間は冷たいものより温かいものを好む習性があります。当然であります。

 理性型の経営者であれば、理性を中心とした、知識技術テクニック中心の経営学を学ぶだけであり、経営学中心で、かつそれ一辺倒であります。理性一辺倒の経営者は、非常に将来を危惧され危険性が高いと感じています。
 
 経営学中心で理性のみの力では、相手や他者に響かないのです。理性だけでは相手は感動しないのです。感動とは感じて動くことを意味してますから、部下であれ、お客さんであれ、その他大勢のステークホルダーを動かすには理性の力だけでは力量が不足なのです。

 理性中心では、経営が短期的にはうまく行っても、長期的にはスムーズに前に進まないこと、いつかは行き詰まることを意味しています。

 実は、理性の底にこそ感性が潜んでいるのです。よって感性に響くものでないと人間的ではないのです。人間力をつけるには感性の力が必要なのです。理性を主にした経営学の根底に感性を主にした人間力の力が潜んでいるのだとお考え下さい。

 また、感動の中にこそ、真理を越えた真実があります。
真理はどこかひやっとしています。が、真実はどこか温かみがあります。真理と真実は違うものなのです。
 
 真理は冷たです。だから理性は冷たのです。理性には人間のぬくもりや温かみがありません。温かいのは感です。だから理性より感性を人間は好むのであります。

 従って、今後のトップリーダーや指導者の必須条件は感性が高いことが挙げられるでしょう。
感性が低く鈍い人はリーダーの資格がないと思って良いでしょう。

(次回に続きます)
   
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2012/03/10(Sat)

(No.149) なぜ感性は力なのか?(2/2)

 ある識者の見解では、人類の最大の危機は自分が自分に戻れないことだと言われています。
アイデンティティ・クライシスといわれています。(identityとは同一との意味で、日頃の自分は本来の自分、真性の自分と同一であるということ。 crisisは危機の意です)
 
 地球温暖化、資源の枯渇の問題、世界的な経済問題以上に深刻なテーマだとも言われています。このテーマはあまり聞き慣れないため、少し抽象的で理解が難しいかもしれませんが考えてみることにしましょう。

 ところで、自分を自分に帰属させる、本来の自分が、自分に戻るにはどうすれば良いのでしょうか?
結論として、それはもう感性によるしか方法はないと言われております。

 実は、人間は感動した時だけ自分が自分に戻れます。これは天から授かった叡知であります。
ハッとしたときに自分が自分に帰属して戻れるということです。
感動できない人間、つまり感性の鈍くなった人間は自分が自分に戻れないから、さまようのみです。今は人類全体がこの感性の鈍さによって、さまよっている状態だと指摘をされています。

 その状態がアイデンティティ・クライシスの状態であります。
要は感性の力を使うことによって、自分への回帰・復権、自分が自分になることが必要であるとの指摘です。

 「知性や理屈じゃない、私は心が欲しい」という叫び声と同じです。理性的になれば成るほど、個性はなくなるのと同じ様に、理性的になれば成るほど自分から遠ざかり自分を見失ってしまいます。

 本音・欲求・感情などが自分というものを表現する存在であり、欲求のない人間は自分の人生を造れないということになります。頭の中で、しかも理性で考えた理想や目標だけで生きることは、命に苦しみを与えます。
 
 まして、名誉や利得(名利)中心で、それらを人生の目的にして生きるのでは苦しいのは当然です。名利は大事なものや、大事なことではありますが、目的ではなく手段の一つなのです。目的と手段をはき違えないことです。

 しかし、命から湧いてくる欲求に基づいて抱いた理想や目標は命を喜ばせます。
よく世間で使われているビジョンとは、理性で考えた理想や目標のことです。これとは別にミッションとは、感性で命の底から湧いたもので使命ともいいます。

 この使命を発見するには、「天」や「天命」の概念に気づくしかないでしょう。「天命、与命、使命を知命して、わが運命を立命する」ことの覚知が必要でしょう。この様にビジョンとミッションは大違いなのです。(経営コラムNo89参照

 違うポイントを簡単に示しますと、ビジョンは自己中心の発想がメインであり、ミッションは自己以外の他の概念が含まれるため他己中心で、世のため人のためという概念が形成されたものです。

 自己中心だと自助努力ですから辛いのは当然で、他己中心になると協力者や支援者が現れますから仕事自体が喜びにつながっていくのです。自力本願と他力本願の違いとみてもいいでしょう。
(経営コラムNo102 No103参照)
 
 しょせん人間は一人では生きられないし一人の力でやれることはたかが知れています。他力を活用し衆知を集め価値を創造することでWin-Winの状態を実現するのが望ましいと考えています。

 現在の世相では大勢の人や経営者が、理性で考えて、理想を持って、それらに縛られて、また支配されて、苦しく、つらい人生を過ごしておられるのではないでしょうか?
先述の名利のみを追いかけた生き様では苦しくなるのは当然でしょう。

 人間の本当の幸せは使命観に裏打ちされて、したいことをすることですから、したいことができないのは不幸なのです。
もし、したいことがないとしたら、それはあまりにも名利に縛られた奴隷に過ぎず、奴隷と同じ様な状態です。
したいことがあって、初めて我々は自分の人生を生きるという言い方ができると思います。
 
 それらが真の志となり、信念となり経営理念や哲学へと昇華し進化していくものなのです。
人間であればその人の背骨ができた状態といえるでしょう。経営者である前にみんな一人の人間であります。

最後にひとこと。
 「人間の存在の証明は内的促進、則ち生命の内から吹き出すもの、うずきこそが生の証明である」
(森有正 初代文部大臣)との言葉も残っています。

 この言葉には、自立(律)性、自主性、主体性を持って「自ら人生を創造していけ」、「運命は最初から決まっているのだ」と宿命観でなよなよと消極化するのでなく、「積極的に運命を立命せよ」との意図と息吹を感じるものであります。
 
 果たして、皆さんはこの言葉をいかに感じられるでしょうか?「感じ方が人間を決め、感性で人間が決まる」のであります。

   
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2012/03/16(Fri)

(No.150) ある倒産経験者に学ぶ どん底から私を救った母の一言

 ある倒産経験者に学び日頃の経営活動の参考にしたいと思います。現在、立派に再建され大きなグループに育てられた実在の経営者であります。以下その本人のお話を紹介してみたいと思います。      

 私は、1967年、四十歳のときに倒産を経験しました。その体験が私の今日の土台になっているようです。
倒産が土台とは、自分の至らなさをさらけ出すようなものですが、認めないわけにはいきません。

 戦後、商社勤務などを経て、兄弟親戚にお金を出してもらい、事業を興したのは三十歳のときでした。室内設計の会社です。仕事は順風満帆でした。だが、いつか有頂天になっていたのですね。足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。それが一挙に口を開いて倒産いたしました。

滅びる者は、滅びるようにして滅びる

 倒産の原因は色々ありますが、つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。

 出資者、債権者、取引先、従業員と、倒産が社会に及ぼす迷惑は非常に大きいものです。倒産は経営に携わる者の最大の悪です、罪です。
世間に顔向けができず、私は家の二階に閉じこもり、なぜこういうことになったのか、考え続けました。
 
 すると、浮かんでくるのは、あいつがもう少し金を貸してくれたら、あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、あの部長がヘマをやりやがって、あの下請けが不渡りを出しやがって、といった恨みつらみばかりです。
 
 つまり、私はすべてを他人のせいにして、自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。自責でなく、他責の人間だったのです。

 だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。
築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって全否定された悔しさがこみあげてきます。
すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。
 
 しかし、私はその堂々めぐりの渦から抜け出すことが、幸運にも出来ました。
何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、徐々に這い上がるしかありませんでした。
徐々にしろ、這い上がるきっかけとなったものは何だったのでしょうか?

 それは今振り返れば、やはり母親の言葉でした。父は私が幼いころに死んだのですが、その三十三回忌法要の案内を受けたのは、奈落の底に沈んでいる時でした。
倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、法事では行かないわけにいかないので、行きました。

 案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じてお金を用立て、迷惑を被った人ばかりなのですから。
針の莚(むしろ)でした。視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。
 
 その時、母は八十四歳でした。母が「いまどうしているのか?」と聞くので、
「これから絶対失敗しないように、なんで失敗したのか、原因を徹底的に考えているところなんだ」
と答えました。

 すると、母が言うのです。「そんなこと、考えんでも私にはわかっている」
私は聞き返しました。「何がわかるんだ」(私)「聞きたいか」(母)「聞きたい」(私)
「なら、正座しなさい」(母)威厳に満ちた迫力のある声でした。

倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」と母は言いました。心外でした。
自分のつくった会社です。だれよりも愛情を持っていたつもりです。
母は言いました。
 
 「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、やすやすと会社をつくった。やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない
母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。だから、子どもが可愛いのだ」
「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。だから、あんたが一番可愛い」母の目に涙が溢れていました。

 母の言葉が胸に響きました。母は私の失態を自分のことのように引き受けて、私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。

 このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。

「わかった。お袋、俺が悪かった」私は両手をつきました。ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけになりました。

 以上が彼が切々と語った体験談であります。

 最後に一言。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言われます。その意味は、者は自分で失敗という貴重な体験をして、次からは決して失敗しないように意識を入れ替えて努力するものです。

 それに比べて、賢者は他人の失敗に学び(歴史)あたかも自身の疑似体験として、同じ失敗をせずに未来を創造して行くという意味であります。さて、あなたはどちら側の人間に近いのでしょうか?
 本日のテーマを「他山の石」として実際の経営に活学したいものであります。

 尚、倒産に至る原因は色々と考えられますが、当経営コラムNo.72No.73に執筆していますので、ご参照頂ければありがたいと存じます。
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2012/03/24(Sat)

(No.151) 名利を離れよ (1/2)

 東洋思想における聖賢は、「名利を離れよ」と教訓を残しています。 名利とは?名は名誉や名声のこと。利とは利害得失つまり利得のこと。二つを合わせて名利と呼んでいます。

 「名利を離れよ」とは、名誉や利得は人生の究極の目的にはならないから注意して生活しなさいと我々を戒めている教えだと思います。
 
 私が若い時に、この言葉にふれて「困ったな」と思いました。当時の私は、がむしゃらに仕事をして名誉もお金も欲しいと思っていましたので、これを求めるなと言われると何のために働くのかわからないと正直思っていました。
 
 この言葉は正法眼蔵(道元禅師)の中に書かれてあるもので、決して道元は名誉と利得を頭から否定されている訳ではありません。

 ただ名誉や利得を求め過ぎたら、本当の人生の目的が見えなくなってしまう、という点で名誉や利得にあまり執着せずに警戒せよと言われたのだと思います。
 
 道元禅師は、1200年生まれで自分で決断して13才で僧侶になり、命がけで中国にわたり修行の後、帰国され、比叡山から弾圧を受け、越前の波多野義重の援助で永平寺(福井県)を建立された人です。彼も一人の人間でありますから、名誉や金銭の問題は避けて通れなかったと思います。
 
 しかし名誉や名声とか金銭を人生の目的にしたら本当の人間の生き方は分からない、という意味で 「名誉や利得から離れよ」、「名誉や利得に束縛されてはいけない」と言われたのです。
 
 現在の私は、これは人生の生き方としては正しいと思っています。結局、名誉やお金は手段にしか過ぎないのです。幸せであるための外的条件にしか過ぎないのです。

 ちなみに、幸せの外的条件とは、衣食住物質・結婚・家族・仕事・収入・お金・地位・名誉・健康などでしょう。条件は幸せそのものではないのです。条件が揃っていても幸福を心で感じなければ幸福ではありません。
 
 お金(手段・条件)を儲けて、それで世の中のために役立つことをするのであれば、お金の意味があるでしょう。そうではなく、単にお金を儲けることは、人生の目的にはならないということです。
 
 同じ様に社会的地位を得るということも、高い地位につくことに意味があるのではなく、その地位を使って世の中のため、人のために役立つことにその意味があるということです
 
 要するに道元は名誉やお金を得ることが人生の最終的な目的にはならないのだということを強調されているのです。 しかし、このことが私自身の中で、しっかりと自分の考えとなり信念に至るまで理解するには長い年月を要しました。先述しましたが、若い時には、正直に「道元は困ったことを言ってくれたものだなぁ」と思っておりました。
 
 従って経営者や社長の方々は、なおさらこの「名誉や利得から離れよ」の教えには抵抗があるものと思います。致し方ないものと想像しております。
 
 このことが自分の中で、霧がスーと晴れるように覚知できるには、やはり人間みんないろんな人生体験を踏み、学び見識を深め、人生観などの価値観が固まり、信念までならないことには納得しづらいものだし、すんなり身に付けるには難しい様であります。 恥ずかしながら私の体験では実際そうでありました。
 
 本来、損になろうが得になろうが、人が褒めようが褒めまいが人間としてやるべきことがある。つまり人としての道、人間としての道やルール、義や道徳にそった道という生き方が東洋思想哲学の根底に流れているものです。
 
 それは企業経営でも同じであります。ある場合は損になるようなことも、人間としてやるべきことであるならば断固やらなければなりません。それを損になるからといってやらないでいると、一時は得したように見えますが必ずいつか破綻する時がくるでしょう。
 
 「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」 「利によりて行えば怨み多し」(論語里仁篇)と教えが残っていますが同じことを戒めています。
 
 最後に、現代は利に喩り、利で交わることばかりが氾濫し、その結果、様々な弊害も生じています。 「名利を離れよ」を現代人に向けられた警鐘の一つにしなければと思っております。

(次回に続きます) 
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2012/03/31(Sat)

(No.152) 名利を離れよ (2/2)

 俗世間は私を含めて大半は私利私欲で動いていて、その原動力は名誉と利得の二つであることも事実であります。現実の姿でもあります。
 
 前回述べましたように、名誉とは人が褒めるか褒めないか利得とは損か得ということです。 一般的には、多くの人がこの二つを人生の目標に掲げて頑張るわけですが、ところが私達、人間を不幸にするのもこの二つなのです。
 
 何故ならば名誉と利得に執着すると、どんなに偉くなっても、どんなに金儲けしても、さらにもっともっと欲しくなる、何十億と金ができても、人間とはやはりまだまだ欲しくなってしまうもののようであります。国内でも今まで卑近な例が沢山あります。
 
 そういう人は、晩年になってこの二つを失うとき、とてつもない寂りょう感におそわれるといわれます。 というのは、名誉と利得を最高の価値として、また人生の目的として生きてきたわけですから、それを失うことは、この世に存在しなくなることと同じだからです。極端にいうと名利を最高のものとする価値観の枠から外れることは自殺行為に近いのです。
 
 そういう意味では私達の社会は、多かれ少なかれ名誉と利得で構成されていることは事実でありますが、この二つを追い求めることが果たして人間として幸福なのかどうかという問題が残るのです。
 
 東洋思想では、そういう頼りにならないものを最高の価値として見なしてはいません。どんな状況でも堂々として心豊かに生きていける人生にすべきだというのが東洋思想の主張なのです。
 
 大体、この世の中で後世に残るような仕事をした人や、将来成し遂げるような人は、損得や名誉を考えずにやった結果、成し遂げることができたのだし、成し遂げられる人だと思います。
 
 損するかも知れないし不名誉なことかも知れないが、「よし私がひと肌脱ごう」という気持ちでやったからこそ、協力者も現れ、道も開かれていくのです
 
 反対に「損になることは爪のアカほどもやりたくない」という功利主義に徹していては誰も共感しないし、また協力者も現れてこないものです。
 
 前回ふれました道元禅師は、「名利つまり名誉とお金は大切なものではあるけれども、最高の価値あるものや人生の目的には決して考えてはならない。それは手段の一つに過ぎないのであり、その手段を活用して世のため人のために役立つものとして位置づけるなら価値がある」と主張しました。よって最高のものと位置付けしたりすると本当の人生というものは得られないと主張しているのです
 
 私達が本当の意味で幸福になるには、俗世間の中にあっても、名利を人生の目標にしない、名利で動かないことが大切なのです。

 名利で動かないというと何か人生を味気ないものにすると思われるかもしれませんが、名利に振り回されなくなって初めて本当の人生が開け本当の仕事ができるものです

 また、そういう生き方をすることによって損得を離れて、人が褒めようと褒めまいと正々堂々と自分で満足して人生を生きることができるのではないでしょうか。
 
 最後に、年齢やその人の立場や周りの環境によって、様々な人生観や価値観があるものです。 本日のテーマについて、皆さんはいかに感じられたことでしょうか?
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