• プロフィール

    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

  • 検索フォーム

  • QRコード

    QRコード
  • FC2カウンター


2016/11/05(Sat)

(No.392) 心のとらわれを外せ (1/2) 

  風が吹けば、竹の葉は風に吹かれて音が鳴り始めます。風の音もピューンと聞こえてきます。だが、しばらくして、風が止めば元の静けさに戻ってしまいます。この様に、何か出来事があれば、それに対応する現象や動きが現れてきます。また、それが過ぎてしまえば、動きは何もなかったかの様に静まり返り、再び元の状態に戻ってゆくのが自然界の現象であります。

 

しかしながら、私たち人間界の日常は一体どうなのでしょうか?良いことでも、悪いことでも、いつまでも過去にとらわれ、こだわったりして心の中で引きずっていることが頻繁にあります。大事なことは「今、目の前のことに100%心を向けること。だから過ぎたことは気にしない。また、これから起こることも気にしない。今ここだけに集中すること」なのですが、過去を引きずってしまいますと、それが全くできなくなってしまいます。

 

ところで「悪いことにとらわれていけないのは、よくわかりますが、逆に良いことは覚えていてもいいのではないでしょうか?」という質問が時々あります。この場合、良いことを引きずるとは、過去の成功にこだわってしまい、今に心が働いていない状態を指しています従って結論として大事なことは、良いことも悪いことも両方ともに、とらわれていいことはないということなのです。両方ともに、とらわれてはいけないのだということになります。オヤッと思われたかも知れませんね。

 

  自分の周りを眺めてみますと、世の中には、とらわれやすいことや、こだわることがたくさんあります。例えば「年齢が若いからできない」とか「年を取っているからできない」とか「男性だからできない」「女性だからできない」などと年齢や性別にとらわれたりこだわったりする人がけっこう大勢おられます。

 

  また、地位や名誉にこだわったり、収入などのお金にとらわれ、こだわる人もおられます。過去にお勤めした会社や、異性の遍歴などにとらわれ、こだわる人もおられます。出自(シュッジ)や学歴・能力、成功にとらわれる人もいれば、失敗にとらわれる人もおられます。その他に、考えればまだまだ色々とあるでしょう。

 

この様に何かに心がこだわったり、とらわれたりして、本来心を向けるべきことに心を向けられない状態を「心の停止状態」またの名を「執着」とも言います。一旦心が停止状態になりますと、心が全く働いていませんので、自分自身が心の停止状態に陥っていることにすら気づきません。

 

それに対して、心を自由に使える状態目の前のことに100%心を向けられる状態を、「心の静止状態」別名「集中」とも呼ばれています。

 

この「集中」と「執着」は良く似ておりますが、実は似て非なるものであります。「集中」というと、周囲のことを全く感じられないほどに、一つのことに心を向けている状態と考えられています。恐らく多くの人がその様に考えておられるでしょう。が、この理解は誤解であって、正しくはありません。実はこの状態のことは「執着」と言います。

 

この様に人間は、何かに「執着」しているときは、その人の心は対象に固定されたままで、自由に用いることが出来なくなっております。反対に「集中」しているときには、心は自由に用いることが出来る状態になっております。もちろんですが、皆さんにお薦めしたいのは「集中」の方であります。詳しい説明は次回に回したいと思います。

 

(次回に続きます)

 

 

 

★ みな様のご意見・ご質問・ご感想をお待ちしております。 yamacon@har.bbiq.jp

 

★ 画面左上のリンクに「カテゴリー別 バックナンバー」を追加致しました。ご利用下さい

 

★ 山口一道 経営コンサルタントのホームページを作成しました。クリックしてご覧頂けます
Home | Category : 人間学 |  Comment  |  Trackback
2016/11/12(Sat)

(No.393) 心のとらわれを外せ (2/2)

一旦何かに自分の心がとらわれますと、自分の心を自由に使うことができなくなります。本来とは命を生かすための道具であり、心は使うためにあるのですが、その道具である心に自分自身が使われることになってしまいます。本末転倒の状態に陥ってしまいます。

 

よって大事な場面で実力を発揮することもできません。これがいかに恐ろしいことであるかは、皆さんもよくおわかりだと思います。それに対処するためには、まず呼吸を静めることです。次に心が静まった状態で自分の心と向き合うことが大事です。すると自分が一体何にとらわれ、何にこだわっているのかが自然に分かっていくでしょう。その自分の心のとらわれが外れたら、あとは簡単になります。本来向けるべきことに、心を向けるだけになります。

 

前回に触れました「集中」と「執着」は見た目がよく似ていますので、自分の状態を正確に掴むのは決して簡単なことではありません。「集中」と「執着」を混同する原因の一つは、どちらにも力があることです。「集中」が強くて、「執着」が弱ければ混同することはないのでしょうが、残念ですがどうもそうではない様です。

 

この二つは似たもの同士で識別が難しそうですが、心配はご無用です。二つの違いは実感を通して確認することができます。確認するポイントは以下の様に大きく分けて3つあります。

 

1.周囲のことを感じられるか?

 執着しているときは、周囲のことを感じ取れなくなっています。視野も著しく狭くなっています。反対に、集中しているときは、周囲のことを(自然に)感じ取っています。視野も広く保たれています

 

2.極度に疲れやすくないか?

 執着しているときは、極度に疲れやすい状態になります。反対に、集中しているときは持続ができる状態になります。また、執着しているときは気が切れやすく、集中しているときは気が切れにくいものです

 

3.心を自由自在に使えているか?

執着しているときは、心は不自由な状態になっています。何かに拘束されている様な状態になります。反対に、集中しているときは、心は完全に自由な状態になります。また、我々みんなに求められている自由な発想は「執着」ではなくて「集中」することから生まれていくものなのです。・・・・以上の3つになります。

 

上の1.に関しては、武道の事例がよく言われます。私は門外漢ですが、武道においては執着して周囲のことが感じられなくなったら、全く役に立たないとのことであります。例えば剣を持つ相手と対峙した時に、相手の剣先に執着すると剣の先以外が全く見えなくなり、その瞬間に身動きが取れなくなるそうです。集中している時は、剣を持つ相手全体が見えているだけでなく、周囲と一体になり周囲のことが感じられるとのことであります。だからこそ、瞬時に動くことができるとのことであります。武道と心とは密接につながっているのですね。だから「心・技・体」というのでしょうね。

 

.に関しては、私達は何事を達成するにも「持続」することが前提でありますから、実際のところ「執着」では役に立ちません。つまり執着ではなくて「集中」することが是非必要であり、求められているのです

 

.に関しては、我々経営者やリーダーにとって、正しい判断をするためには、心を自由に使える状態(集中)にしておかなければいけません。しかし現実には、目の前のトラブルや、目先の利益や資金繰りなどに執着しやすいものであります。心が固定され不自由な状態(執着)になりますと、正しい判断はできないからであります。

 

だからこそ、経営者やリーダーの皆様は、「集中」と「執着」の違いを良く理解されて、今回のテーマである「心のとらわれから脱却できる」ように、常に心を鍛える・心を養う必要があるということになるのでしょう。

 

 

 

★ みな様のご意見・ご質問・ご感想をお待ちしております。 yamacon@har.bbiq.jp

 

★ 画面左上のリンクに「カテゴリー別 バックナンバー」を追加致しました。ご利用下さい

 

★ 山口一道 経営コンサルタントのホームページを作成しました。クリックしてご覧頂けます

Home | Category : 人間学 |  Comment  |  Trackback
2016/11/19(Sat)

(No.394) 人との交わりには二種類ある 

今回は私淑している安岡正篤師に学んでみたいと思います。安岡先生は『東洋人物学』の中で歴史上の人物を取り上げて評価しておられます。その中で石田三成と共に、関ヶ原の合戦(1600年)で敗北した大谷吉継(ヨシツグ)が石田三成に送った手紙を紹介して、そこにある「金銭と人間」の精神の在り方に触れ、大谷吉継の人となりを高く評価しておられます。

 

  その手紙の内容は「あなた石田三成殿は、常にお金を大切にして、人や家臣はお金さえ与えれば、彼らは命令に素直に従うものだと思っておられる様だが、それは全くの心得違いであります。お金で人を動かし使おうと思うのは、人の心が離れる原因になります。よって何事も誠意と情実を持って人に接しなければ、事を成すことも、成功をおさめることもできはしません」と言うものでありました。

 

それを機に吉継から忠告された三成は、「お金だけでは人を心服させられない」ことに気づき、それ以降は礼儀と誠実をもって、人や家臣に接するように努めたと言われています。この吉継のアドバイスのおかげで、三成の人間性が向上したと言われています。

 

  この様に安岡正篤師は吉継と三成の交友関係に触れながら、中国の詩文を集めた『文選モンゼン』の中にある「広絶交論」(作者は劉峻リュウシュン)の教えを紹介されています。それは、人との交わりや関係には次の様に二種類があると教えているものです。この教えは現代社会でも充分に通用し、活用されても役に立つ教えであると思いますのでご紹介したいと思います。

 

【1】裸の交わり・・・人間の生地の付き合い。人間性の付き合い→→→「清交 セイコウと言います。

【2】世俗の交わり・・・打算的で損得などを考えた付き合い      →→→「利交 リコウと言います。

 

この【2】の利交 リコウは、さらに分かれていって、次の五つの交わり方があると言っています。

それは、①勢交セイコウ ②賄交ワイコウ ③談交ダンコウ ④量交リョウコウ ⑤窮交キュウコウの五つになります。各々の意味を説明しておきましょう。

 

勢交は、相手の勢いや勢力のある人と交わること ②賄交は、儲かる相手、お金になる相手と交わること ③談交は、名声が聞こえる相手と交わること ④量交は、相手の景気次第で交わること ⑤窮交は、助けを求めて交わること の五つになります。

 

この五つの交わりは人間としての心と心の結びつきはなく、手段的で打算的な交わりでありますから、清交 セイコウではなく、利交 リコウと言われます。よってこの利交の交わりは、極力避ける努力をして可能であれば、絶交すべきであると厳しく戒めております。現代社会でも充分活用すべきテーマではないかと思ったり致します。

 

  この五つの交わりは私達にとっても、痛いところを突かれた様な気がいたします。その理由を考えてみましょう。普段の私達は、「肩書のある政治家や地位の高い官僚や有名な人と知人になりたい」とか、「大きい企業や有名な会社と知り合いになって、取引をしてみたい」などとよく話題にしたりします。自社のビジネスなどで利用したいと考えたりしています。ドンドン知り合いを増やし人脈を広げ、受注や売上高を増やしたいと考えています。その結果ビジネスチャンスが広がっていくこともあるでしょう。

 

しかしながら、逆に、何かのきっかけで取引が止まりますと「金の切れ目は、縁の切れ目である」などと言って縁が全く切れることも日常茶飯事であります。今までのお付き合いは一体何だったのでしょうか? やはりただの利交での交わりの人間関係であり、単なるビジネスの手段としての付き合いだったのですね。心と心の結びつきは全くないと言っても良いでしょう

 

この様に打算的な付き合いというものは、何かがあると長続きはしない付き合いであるのが良く分かります。この利交の五つの交わりは、人間世界の弱さや醜さを、良くつかんでいる教えであると思います。心したいと思います。

 

先ほどの大谷吉継と石田三成の最後は切腹と処刑というものでありましたが、その二人の交わりは心と心の交わりで、深い友情で結ばれた清交というべきものであったと言われています。その深い絆は、年齢も同世代で出身も近江と同じだったからとも言われております。こうした二人の清交の交わりの一点であっても、時代が何百年と過ぎても、二人の交わりは永遠に輝いているのであります。我々も心したいものであります。

 

 

 

★ みな様のご意見・ご質問・ご感想をお待ちしております。 yamacon@har.bbiq.jp

 

★ 画面左上のリンクに「カテゴリー別 バックナンバー」を追加致しました。ご利用下さい

 

★ 山口一道 経営コンサルタントのホームページを作成しました。クリックしてご覧頂けます

Home | Category : 人間学 |  Comment  |  Trackback
2016/11/26(Sat)

(No.395) 無私の精神から生まれる経営 (松下幸之助氏に学ぶ) (1/2)

経営者の真のリーダーシップは、無私の精神から生まれてくるものだと思います。経営は単なる金儲けではありません。だが、経営は欲深くて迷いがでやすい人間の営みの一つでもありましょう。その様々な葛藤をどうやって克服して、心澄み切った境地に至るのでしょうか?

 

我々が、ひとかどの経営者になるには現実の中で、宗教に勝るとも劣らない修行を積まなければならないとも言われております。今回は、「経営の神様」と言われる、亡き松下幸之助氏(1894~1989年94歳で没)に学んでみたいと思います。

 

三洋電機の社長を務められた井植薫(イウエ カオル)氏は、三洋電機に移籍する前に24年間、松下電器に在籍されて松下幸之助氏と一緒に仕事をなさったとのことであります。お二人は親戚の間柄でもありました。まず初めに、その井植薫氏の言葉からご紹介をしてみたいと思います。

 

  井植薫氏が若いころ、夜仕事をしていると、幸之助氏が独り机に向かって、何か熱心に書き物をしていたそうです。こっそりのぞきますと「金、金、金、金・・・・」と一心に書き続けていたとのことであります。日頃、幸之助氏は「金は道具であって、目的は人間の生活の向上にある」と言い続けていましたから、「金を命より大事だと錯覚する怖さと、私心なく金を使う難しさを絶えず自問していたに違いありません」と述懐されています。

 

  井植薫氏によりますと「マスコミは、彼のことを経営の神様と神格化しておりますが、昔は幸之助さんも普通の経営者と同じように、お金が欲しかったんですよ」と話をされておられます。この話しは、経営の神様と言われていても、彼も我々と同じく普通の人間だったのだという点で親しみが持てる話しであります。幸之助氏のお金に苦労する姿は、ごく普通の中堅中小企業の経営者と同じであったということなのですね。

 

しかし松下幸之助氏は、儲けるためなら何でもするという人間ではなかったとのことであります。もしそうであったなら、松下電器産業(現在パナソニック)は一家業で終わっていたかも知れません。彼がお金の魔力に取り込まれなかったのは、自分を越える何か大きな力に対する畏敬の念を持っておられたからではないでしょうか?

 

また、松下幸之助氏は自著『実践経営哲学』で次の様に書いておられます。「経営というのは、天地自然の理に従い、世間大衆の声を聞き、社内の衆知を集めてなすべきことを行っていけば、必ず成功するものです」と。そのために「素直な心」が不可欠なのですよと言う。

 

「経営の神様」と周囲から崇(アガ)められていても、本人は舞い上がらずに神様には決してならなかったのでした。正確に言えば、傲慢にならない様に、慢心にならない様に、自分を押さえ辛抱されて自戒しておられたのでしょう。

 

幸之助氏の心の根底には、神様や仏様に自然に手を合わせる素朴な宗教観を持たれていたようです。その証拠には、大正7年(1918年23歳)の創業に際して、幸之助氏は工場兼用の借家に和歌山県の実家に祭っていた白竜大明神を祭ったそうです。また、松下電器の主な事業所や本社にも、社(ヤシロ)やお堂を次々と建立されたそうです。さらに物故者を弔(トムラ)うために高野山にお墓も造られたとのことであります。

 

  本来なら、ビジネスと宗教は直接的には関係が無さそうに思われますが、幸之助氏の根底には宗教観というか、宇宙観というか、天地自然の中で、形のないものや見えないものに対する畏敬の念というか、独特の人間観を子供の頃から持たれていたのではと想像しております。

 

(次回に続きます)

 

 

 

★ みな様のご意見・ご質問・ご感想をお待ちしております。 yamacon@har.bbiq.jp

 

★ 画面左上のリンクに「カテゴリー別 バックナンバー」を追加致しました。ご利用下さい

 

★ 山口一道 経営コンサルタントのホームページを作成しました。クリックしてご覧頂けます

Home | Category : 経営学 |  Comment  |  Trackback
Home Home | Top Top