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    山口一道

    Author:山口一道
    山口経営コンサルタント事務所 代表
    YMCグループ 代表理事

    長崎大学経済学部卒
    経営コンサルタント業歴35年
    リーダーシップをはじめ幅広いテーマに対応 
    リーダーのあり方に警鐘を鳴らし、若手経営者の育成に力を注いでいます。

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2017/12/02(Sat)

(No.445)「般若心経」に学ぶ 心を鎮め悩みと迷いを解放する教え (2/3)

では、この般若心経が、一体私達に何を教えてくれているのかと言いますと、先述致しましたが、すべてが「」だという一言につきるといえます。ところが一言で「空」とはいうものの、それは非常に難しい概念だと思います。

 

たとえ話で説明してみますが、ここに一千万円というお金があるとします。私は一千万円というお金を見たら大金だと思いますが、政治家にとっては、はした金に過ぎないかも知れません。お金に物差しがついている訳ではありませんから、それを大金にするのも、はした金にするのも、見る人の心の中の物差し次第で思いが変わってゆくものなのです

 

  「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」という言い回しがあります。それもビクビクした心で見るから何でもないものまで怖い幽霊に見えてしまうとの例えです。尾花とはススキの穂のことで、強い心で見れば単なる枯れ尾花にしか過ぎないわけです。しかも、枯れ尾花という洒落(しゃれ)た名前を知らなければ、ただの枯れた雑草でしかないでしょう。

  また、十個のまんじゅうを多いと思う人もいれば、少ないと感じる人もいるでしょう。こうした違いはそれぞれの人が、きれい汚い、多い少ないという物差しを持っているからこそ生じるものなのです

 

般若心経が我々に教えているのは、まさにそのことであり、本来、物にはきれいも汚いも、多いも少ないもないということなのです。それが「」の意味であると考えて下さい。「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう くうそくぜしき)という有名な文言がありますが、とは物質のことですから、「物はすべて空であるし、空なるものがすべての物である」という意味になります。

  すべてが空であるのに、我々は心の中の物差しで物を見て、その上に物を差別して、その物に勝手に主観で感じたレッテルを貼っているのです。どうか皆さん、そのレッテルを貼らずに、はがして下さいねと、般若心経は我々に教えているのです

 

  「差別」、この言葉を仏教的な読み方ではシャベツと言うらしいですが、それに関して一つのクイズを解いてみたいと思います。今、大きな池であなたのお母さんと奥さんが溺れているとしましょう。二人ともカナヅチで泳げないとして、あなたはどちらを先に救いますか?という問いです。

  この問題は明治時代の禅僧が京都大学に招かれた時に、講演の中で実際に出題した問題らしいですが、母だ妻だと様々な意見が出る中で、その禅僧は「私は近くで溺れている方から救います」と答えたということです。母だ妻だと差別をせずに、レッテルをはがして考えれば、二人とも溺れているただの人間だからという理由からでした。

 

  もし禅僧でなく、仏さまが助けるとしたら、どちらから救われるのでしょうか? 上と同じ様に、仏さまは溺れる人を差別せずに、近くで溺れている人から先に救助されるわけです。この場合、仏さまは善人悪人・老若男女を問わず一切の差別を絶対になされません。それが仏さまの物差しであり、何故ならば全ての人を慈悲の心で平等に見ておられるからです。

 

  ただし救う順番があるのも事実でしょう。先に救われる人がいれば、後回しにされる人もいるでしょう。ではどのような物差しで後回しにされるのかと言えば、この場合は泳げる人、泳げない人が判断基準になるでしょう。カナヅチの人はすぐ溺れて死んでしまいますが、泳げる人はしばらくの間は救助を待つことができるから救う順番が発生するということなのです。

 

 (次回に続きます)

 

 

 

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2017/12/09(Sat)

(No.446)「般若心経」に学ぶ 心を鎮め悩みと迷いを解放する教え (3/3)

 前回、全ての物は本来、であるのだが、我々が勝手に主観で物を見て、レッテルを貼ってしまい、物や人を差別してしまうのです、と述べました。つまり自分中心で、わがままな物の見方が、執着を生み出したり、争いを起こしたりして、苦しみの原因になっていくのです

 

  このように様々な思いや認識で、頭の中が一杯になってしまうのです。従って迷っている人の頭の中は、あたかもゴミで一杯になった部屋のような状態になります。それに対して仏さまの心の中は、ゴミがすべて片づいていて、広々としたきれいな部屋のようであると言われます。同じ部屋であっても、物があふれて散らかっていたのでは、その部屋は狭い部屋になるからでしょうね。

 

  私たち現代人の多くが、かかっている病は、皆、たくさんの物を抱え込んでおり、もし狭くなったら、もっと部屋を広げれば良いのではないかと考えているところにあると言われています。しかし、それは無理の様であります。部屋を広くするためには、部屋一杯に散らかった物を片づけて不要な物を捨て去ることにあるからです。

 

  日頃の私達は、知識を精一杯詰めこむばかりで、頭の中が一杯になってはいないでしょうか?さまざまな思いや感情が頭一杯になっていて、あふれ出す寸前ではないでしょうか?「般若心経では、まずお互いのにして、空っぽにしてしまいましょうと説いています

 

坐禅が浸透しているようですが、それは心を空っぽにする修行のためにするのだそうです。眼で外のものを見ないで、耳で外の音を聞かない様にして、好きだ嫌いだなどと判断を一切せずに、ただ聞こえてくるに任せてしまう、心でもあれやこれやと考え事をしない様にと教えています。全然考え事をするなと言われても難しいことなので、自分が静かに呼吸をしていることだけに、意識を集中させなさいと教えていますこれが出来れば自分の心の中は空っぽになる、と言われております

 

  実際に坐禅をしなくても、鼻や口から息が出ている、鼻や口から息が静かに入っていることだけを見つめなさい、それをただ繰り返すだけで、だんだんと自然に心が空っぽになってくるのですよ、と教えています。これでやっと般若心経の説いている、心が空っぽになってゆけるのではないかと思います。

 

  その空っぽの心という状態を、よりもっと説明致しますと、「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろいひろい、もっとひろい心」これが般若心経の説く空の心だそうです。では一体何にかたよらないのでしょうか? それは自分中心に物を見たり聞いたりして作り上げた認識に、かたよらないことでしょう。こだわらないとは、自分勝手な思いにこだわらないことでしょう。そんな自分で作り上げた様々な思いなどに、とらわれないことなのでしょう。この様に、かたよらず、こだわらず、とらわれずの3つの心の使い方を薦めております。

 

  がしかし、これらのことは、口にするのは簡単でしょうが実際は、誰であっても「言うは易く行いは難し」であり、なかなか簡単には実践できないかも知れません。が一歩でも近づくように修行を重ねてゆきたいものであります。心が空っぽになったと言うのは、心に引っかかるものが無い、障がいになるものが無いという意味でもあります。それは空っぽになった分だけ心が広くなってゆくからでしょうね。

 

  善と悪、是と非、多と少、富と貧、貴と賤、老と若、明と暗、光と闇、愛と憎、美と醜など、これらは数え上げれば切りがないほど、たくさんの差別があって対立があるものです。差別によっては心の安定は得られませんし、対立からは平和も幸福も生まれてはこないでしょう。善だ悪だ、是だ非だと、お互いに正しさを主張して譲らないところから、争いが生まれてくる様ですね。よって対立から離れた無差別平等の世界がなのだと考えて良いと思います

 

 「般若心経」では、「無老死」(むろうし)という言葉が出てきますが、老いるとか、死ぬとか、いうことは一切ないのですよと呼びかけています。「の立場からすれば、老とか死とかにこだわらなくても良いわけです。ところが現代医学では老死を克服しようとして、できるだけ死を先に先に延ばそうとしています。克服しようとすればするほど老死が苦しくなるだけで、それは愚かなやり方なんですよと教えているのです。

 

  でも、最近の医療や介護の現場では、過度の延命治療は望まずに、緩和ケアを選ぶ人々が増えたとの話を耳にするようになりました。少しずつですが、やっと般若心経の教えが広まって来たのではないでしょうか?

 

  老いることが悪いことではありません。長生きしたいという欲望が、老いを嫌なものにして、死を怖くさせているのです。年を取ったら年寄りらしく生きればいいことです。差別によって心の安心は得られません。損得の物差しで幸不幸、良い悪い、きれい汚いなどを簡単に決めつけないで、ありのままあるがままを受け止めて生きること、それが般若心経の教えであります。

 

  私達は、時には差別すること、批判すること、対立することをやめて、心を空にして、心に引っかかるものが一切ない広い世界を大切にして、ありのままあるがままをいただいて生きてゆきたいと思いますが、皆さんいかがなものでしょうか?「心に引っかかるものが無いという状態は、人間最高の美しさである」と言われております。ご参考に。

 



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2017/12/16(Sat)

(No.447) 日本人と宗教 (1/4)

宗教とは何なのか?この問いの答えを見出すのは容易なことではありませんが、私たち日本人の一人ひとりの生き方に関わる大切な事柄と言っても良いでしょう。現代の日本人は無宗教という人が多く、宗教に対する認識が薄いような気がしております。

 

しかし、人間にとって宗教は欠かせないものだと思います。日本人にとって大事な宗教といえば仏教神道(しんとう)ですが、ここではその他の宗教についても学びながら、現代社会の中での宗教の捉え方、生活への生かし方などを考えてゆきたいと思います。

 

【日本人は宗教音痴なのか?】

 

  日本人は宗教嫌いではない、と思われます。その理由についてですが、政府の統計によれば、色々な教団の信者の総数が二億一千万人に達していて、日本の人口総数より膨れ上がっているとのことです。これは、一人で複数の宗教を持っていることになりますから、むしろ日本人は宗教好きだと言えるのかも知れませんね。

 

しかし、一体宗教が何であるのか、皆目(かいもく)分かっていない面がありますから、一般的に日本人は宗教音痴であると言われているのでしょう。自分自身について振り返ってみましても、小学・中学・高校・大学の学校に通っている間に、宗教について、きちんと基本を学んだという記憶がありません。もしかしたら忘れてしまったのかも知れませんが・・・。確かに私を含めて日本人は宗教音痴といわれても仕方がないのではないかと思います。

 

例えば、火と水と空気、この三つのうちで一番宗教的なものはどれでしょうか?という質問をしますと、空気と答える人が一番多い様です。正解は火だと考えられますが、ここに日本人の宗教音痴ぶりが良く表れているのではないかと思います。なぜなのでしょうか? 水と空気はすべての生き物にとって必要なものですが、火は動物のうち人間だけしか使用しません。それと同じように宗教を持っているのは人間だけですから、その三つの中で火が一番宗教に近いと思われるからです

 

しかし、火はやけどをしたり、火事を起こしたりしますから危険なものの部類に入るでしょう。宗教をいいものと思うのは宗教音痴だからで、昔のオウム真理教などの事件を思い起こせば、本来は怖いものでもあります。けれども、怖くても必要なのが宗教ではないのかと思います。

 

動物+宗教=人間という方程式が成り立つとすれば、人間から宗教を引けば動物になってしまいます。今の日本人には無宗教の人が多いわけですが、この方程式が正しいとすれば、無宗教の彼らは動物ということになるわけでしょうか。無宗教の人が聞けば怒られそうですが・・・。

 

【神道は「民族宗教」である】

 

日本人にとっての宗教を考えるにあたって、神道・キリスト教・仏教の三つの宗教のあり様を見てゆきたいと思います。最初に神道に触れてゆきますが、神道は簡単に言えば、日本人でなければ信者になれない宗教ですから、所属宗教と言っても良いかも知れません。生活習慣との関わりが深い点をも考慮すれば、民族宗教とも言えるかも知れません。

 

  お正月に神社に初詣のお参りに行き、二礼二拍手一礼をして、家庭円満や健康長寿、商売繁盛や受験合格、世界の平和などを祈願することなどが挙げられると思います。その他にも色々とありますが、七五三とか厄入り厄払いなどで神社に詣でる事もあるかと思われます。

 

実は、神道には教義というものがありません。聖典も特になく「古事記」や「万葉集」などの日本的なものがそうだと考えれば良いでしょう。ですから、神道はきわめて漠然とした宗教なのです。面白い点は、神道の神様が完全無欠な存在では無いということです。神様も間違いを起こすというのが神道の考え方なのです。私たちはそれを生活の中に活かしているのです。

 

例えば会議で、決議を取らずに司会者がまとめてしまう様なやり方は、神様だって間違いを犯すのだから、とりあえずこれで行こうと考えるからでしょう。杓子定規に決めることを避け、和気あいあいとやっていくことを教えているのが神道なのです。ある意味では、神道は間違いからの自由を与える宗教と考えれば分かりやすいかも知れませんね。えっ?と驚かれるかも知れませんが・・・。

 

(次回に続きます)

 



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2017/12/23(Sat)

(No.448) 日本人と宗教 (2/4)

【ユダヤ教の成立について】

 

次にキリスト教について触れたいのですが、キリスト教ユダヤ教から生まれてきた宗教ですから、まずユダヤ教がどんな宗教なのかを知らなくては、キリスト教を理解することはできないでしょう。

 

  では早速、ユダヤ教成立の歴史を見てみましょう。パレスチナの地に飢饉(ききん)が起こり、そこに居住していたユダヤ人たちは、エジプトに逃げ込みました。ユダヤ人たちは、当初は大事にされたものの、紀元前十三世紀ごろにはエジプト人の奴隷となって、苦渋の生活を強いられるようになりました。

  そこに登場したのが預言者のモーセです。彼は「私という神のみを唯一絶対の神とする契約を結べば、皆はパレスチナの地に戻れるであろう」という言葉を神から預かり、それをユダヤ人たちに伝えたのです。

 

その後、紆余曲折を経て最終的にはユダヤ人たちはヤーウェ(ヤハウェ)の神と契約を結びました。神と契約を結んだユダヤ人は与えられた律法(神が出した命令)を忠実に守り、その限りにおいて、神はユダヤ人を庇護(ひご)しました。しかし、この契約関係には恐ろしい側面があり、契約を結んでいない人間には一切、便宜供与がありませんでした。

  この様な契約精神がユダヤ教の基本思想と言えるでしょう。ユダヤ教のことを一神教と言いますが、神が他にもいることを承知の上でヤーウェの神のみと契約を結ぶのですから、正確には
契約一神教と呼ぶべきであると言われております。

 

【キリスト教は「契約宗教」と呼ばれている】

 

予言者は未来に起こることを予言するに過ぎません。しかし、モーセのような預言者は、神から預かった言葉を人々に伝えるのです。ユダヤ教の神は契約に忠実であることを、しばしば人々に迫りました。そして、忠実である限りにおいて契約は更改されるのですが、その際ユダヤ人の中には、より良い契約内容への切り替えを期待する声もあった様です。

 

その様な期待に応えて登場したのがイエス・キリストであり、彼は「神の子」として「新しい契約」を授けるために、ユダヤ人の前に現れました。しかし、ユダヤ教の信者にとって、神は名前すら呼ぶことを禁じられた異質の存在ですから、神を人間視する神の子の存在は、神に対する冒涜(ぼうとく)にほかなりません。ですからユダヤ教徒は、イエス・キリストを犯罪人として十字架に架けたのです。

 

イエス自身が「神の子」と言ったか否かについては解釈が分かれていますが、キリスト教神学の立場からすれば、言ったということになるわけです。また、ユダヤ教の立場からすれば、「神の子」であるイエスは偽(にせ)の預言者です。つまり、この点がユダヤ教徒とキリスト教徒の判断の分岐点になっていったのです。

 

ちなみに、新約聖書の「新約」とはイエスがもたらした「新しい契約」に名前の由来があります。ですから、それ以前の「旧い契約」に基づいたものが旧約聖書というわけです。新約聖書は福音書と呼ばれています。福音とは神の祝福の言葉を意味しますが、イエスがもたらした「新しい契約」とはどのようなものなのでしょうか?

  契約と律法で信徒を縛るユダヤ教は、神が言われたままに生きるマニュアル宗教であり、ある意味では、神の奴隷になる宗教でしょう。そこでイエスは、ユダヤ教の厳しい律法を遵守(じゅんしゅ)したご褒美として、それからの解放を約束すると伝えたのです。ですから、「新しい契約」は神の喜びのメッセージであり、福音というわけなのです。

 

(次回に続きます)


 

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2017/12/30(Sat)

(No.449) 日本人と宗教 (3/4)

【自由には、危険な側面もひそんでいた?】

 

部族間での争いが絶えない砂漠の民にとっては、様々な生活規制は止むを得ませんし、絶対的なリーダーの存在が集団には不可欠でした。ユダヤ教のあり方は、そうした生き様を反映したものと理解した方が良いのかも知れません。

 

この観点からすれば、キリスト教は砂漠離れをしたわけです。律法(神が出した命令)からの自由を唱え、神との契約に縛られるのではなく、むしろ契約以前にすべての人間が神に愛されているとしたのです神との契約に縛られるユダヤ教と違って、神との契約に縛られないという思想であるキリスト教が、全世界に広まって行った理由はここにこそあるのでしょう

 

  しかし、神が全人類を愛しているということは、世界はすでに神の土地であるという考えも含みますから、危険な側面もあったことを見逃すこともできないでしょう。世界史を振り返ってみれば、十字軍を派遣したり、宣教師を世界各地に送り込んだ歴史の根底には、そうした思想があったのかも知れませんね。

 

  ちなみにイスラム教は、律法からの自由に異議を唱えて、神との契約の精神に戻ろうとして出てきた宗教と考えればいいでしょう。ですから、神学的な意味において、イスラム教はユダヤ教に近いのです。それに、イスラム教の聖典はコーランだけでなく、旧約聖書も含まれています。現代においても、パレスチナの地では、イスラム教徒とユダヤ教徒が激しく対立しますが、それは政治的対立であって、必ずしも宗教的な対立ではありません。両者はむしろ仲がいいのです。

 

【仏教は「自覚の宗教」である】

 

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三宗教は、いずれも旧約聖書を聖典の一つとしていて、神との「契約」が出発点になっています。その点、仏教には「契約」という考えがなくて、「自覚」さえできれば仏教者になれるという宗教になります。よって一般的には、仏教は自覚宗教と呼ばれています。その自覚とは、少し難しくなりますが「一切衆生を包み込む、仏の慈悲に救われる」という仏教の基本思想に対する認識のことになるでしょう。

 

さて、仏教には、少し細かくはなりますが、小乗仏教大乗仏教の二つがあります。小乗と言う言葉は少し軽蔑した言い方ですが、ここでは大乗の理解を助けるためにあえて使うことにします。「乗」(じょう)という言葉は乗り物を意味していますから、まさに小さい乗り物と大きい乗り物を指して名づけられたものです。

 

その乗り物は、例えて言えば船であり、こちらの岸つまり、此岸(しがん)から川を越えて、あちらの岸つまり、彼岸(ひがん)へと私達を渡してくれるものです。小乗仏教では川を渡ることが出来る者は、基本的に出家者だけであり、この世のあらゆるものを捨てなければ川を渡ることは出来ないと考えていますから、渡し船が小さいわけです

 

それに対して大乗仏教は、自覚さえあれば出家しなくても川を渡ることが出来ると考えていますので、乗り物が大きいと見なされているのです。ここで言う此岸(しがん)とは、私達が生きている苦悩にあふれた現実の世界のことで、娑婆(しゃば)とも言われています。我々が良く耳にする言葉ですよね。この娑婆の世界では苦悩を解決できませんから、小乗仏教も大乗仏教もあちらの岸である、彼岸(ひがん)つまり悟りの世界へ行こうとするのです。

 

仏の慈悲を自覚すれば娑婆にいても彼岸に行けるのですよ、と教えているのが大乗仏教になります。それに反して、完全に娑婆を捨てなければ彼岸には渡れませんよ、とするのが小乗仏教になります。ここでも仏教が自覚宗教と呼ばれている理由が出てきましたね。ちなみに大乗仏教は日本、中国、チベットの仏教がそうであり、小乗仏教はインド、タイの仏教が属していると言われています。

 

競争に勝ちたい、お金持ちになりたい、健康になりたいという欲望にまみれて、私達は娑婆に生きております。が、要は仏の慈悲を自覚して娑婆の物差しを捨てれば苦悩から離れて自由になれますよと教えているのが仏教です。この自由になれるということが宗教の本質であり、ユダヤ教も奴隷を自由にしましたし、キリスト教も律法からの自由をもたらしました。このことは先に述べた通りであります。

 

  今、日本人を会社奴隷と見る向きもありますが、宗教の本質を理解して、今後の生き方や仕事の仕方・考え方を、少しでも見直しして行けたらいいのになぁ、と考えたりしております。

 

話が少し横道にそれますが、宗教と希望の関係を調べた各国の調査(日本・米国・フランス・韓国)の結果によりますと、各国に共通している点は、信仰や宗教など何か信じるものがある人ほど、希望を持っていたとのことです。先述致しましたが、今の日本人には無宗教の人が多いと言われていますが、日本では将来に希望を持てない人が確実に増えているのも、その辺との関係があるのかも知れませんね。

 

希望を持たずに生きている人が多いとは、どの様に考えれば良いのでしょうか?前向きな人生であってほしいのに、後ろ向きの人生になってしまい、心が暗くなってしまいますね。日本の将来を危惧しているのは私だけなのでしょうか?(宗教と希望の関係については、当経営コラムのNo326希望学をご参照ください

 

(次回に続きます)

 

 

 

執筆者よりのご挨拶

今年も1年間、お読みいただきまして、誠にありがとうございました。来る2018年があなた様にとって、良い年であります様に心からお祈り致します。どうか皆さん、良いお年をお迎え下さい。

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