2019/03/01(Fri)
吉田 松陰(よしだ しょういん)(1830~1859年29歳没)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家であります。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られています。今年は明治維新(1868年)から151年が過ぎた年であり、また今年は平成の元号も最後で新元号が制定される(2019年5月1日予定)記念すべき年となります。
幕末維新の教育者として、いまもその雄姿が語り継がれている吉田松陰。松陰のもとで志を育んだ志士たちは、のちに維新の回天(時勢を一変させること)の一端を担っていきました。では、松陰は一体どんなふうに僅かな期間で弟子たちを教育したのでしょうか。実際に行われていたであろう、やりとりをご紹介してゆきましょう。作家の童門冬二氏の「新代表的日本人」を参照しながら進めて行きたいと思います。
吉田松陰が直接、松下村塾(山口県萩市)で門下生を指導したのは、正確には安政4(1857年)の3月から安政5年(1858年)の12月までです。わずか1年9か月にすぎません。こんな短い期間に、彼はおびただしい人材を育て上げたのです。一体、どこにそんな力があったのでしょうか?
松陰はこう言ってます。「一誠は兆人を感ぜしめる」すなわち「人間が誠を尽くせば、一兆の人間をも感動させることができる」と。松陰自身は決してそんなうぬぼれを持っていたわけではありません。また「自分の力によって、一億の人が感動している」などという思い上がりの気持ちを持ったことも一度もありません。彼は常に、「わたくしは師ではない。君たちと共に学ぶ一介の学徒だ」といい続けていました。彼の教育方法は、
・現代とは何か。
・現代で一番問題なのは何か。
・それを解決するために、自分の全存在はどういう役に立つのか。・・・そういう探究でありました。
従って、彼は常に自分が完全だとは思いませんでした。最後まで修行者であり、常に欠点を抱えた存在であると認識していました。だからこそ、弟子に向かっても、「君たちの長所で、ぼくの短所を埋めてくれたまえ」と語り続けています。有名な話しですが、彼は「飛耳長目(ひじちょうもく)」(物事の観察に鋭敏なこと)というメモ帳を持っていました。調査魔であり、情報魔であった彼は常に自分が見聞したことや他人から見聞したことを、全部メモ帳に書き綴っています。それも今でいえば社会問題が多かった様でした。
そしてここに書き記したメモをテキストにしながら、「昨日、あそこでこういう事件が起こった。政治との関わりで考えてみよう。なぜこういう事件が起こったのか、未然に防ぐことはできなかったのか、防ぐとすればどういう手段が考えられたか、しかし一旦起こってしまったことはしかたがない。これを解決するためには、どうすればいいのか、われわれとして何ができるのか、それをお互いに議論してみよう」という講義を行いました。
いってみれば、日常起こっている社会問題をテキストにしながら、それを政治との関わりにおいて討論するというのが吉田松陰の教育方法だったのです。従って、絵空事は一切語りません。だからといって、彼は詩や文章も重んじています。「政治問題を考える上でも、詩を作り文章を綴りたまえ。そうすれば、解決策にゆとりが出る。人間らしくなる」と。彼は常にそう語っていました。
また、「自分の眼で見、耳で聞かないことは、決して自分の意見として提出してはいけない」というリアリズム(現実主義)を重んじています。かれ自身、日本国内に起こった諸問題に立ち向かう時に、「自分の眼で見、聞いてこよう。聞いてからでなければ、自分の意見を固めることはできない」といって、日本国中旅をしています。その地域は、実に青森県から九州諸地方にまで亘っていたのでした。
(次回に続きます)
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2019/03/08(Fri)
【松陰は長州藩にも日本にも、人材がいないと嘆きます】
幕末、長州藩にはおろか、日本にも人材がいないことを嘆いた吉田松陰が、自らの手で人材教育を始めたのが松本村の松下村塾でした。ここで松陰はわずかな期間で、多くの人材を輩出したわけですが、明治国家(1868年)を見ることなく非業の死を遂げた弟子たちも少なからずいました。一流の弟子たちは残念なことに若死にしています。同じく松陰自身も明治国家を見ることなく、若くして死を迎えています。
吉田松陰は、萩の郊外にある松本村の一角から、長州藩政を凝視し、同時に徳川幕政を凝視していました。凝視すれば欠陥だらけでした。アメリカからやってきたペリーの恫喝(どうかつ)外交に対してさえ、当時の幕府や大名家はオロオロするだけで、的確な処置がとれていませんでした。
「一体何をやっているのだ?こんなことではダメだ」そこで彼は、自らアメリカに密航してかの国の実態を自分の眼で見、自分の耳で聞いてこようと企てます。それが失敗しました。しかし失敗したからといって、その考えを屈したわけではありません。彼は次第に日本国内にみなぎりはじめた「攘夷論(じょういろん)」(外国を退けようとする考え)に対しても、独自な考え方を持っていました。ただ闇雲に、「日本にやってくる外国船は撃ち払え」などというコチコチな教条主義を主張していたわけではありませんでした。
彼は文化の度合において、それぞれの国が優っているか劣っているかも大切なモノサシだと考えていました。従ってアメリカに対しても、「鎖国令は日本の祖法なのだから、これを死守する」などという様な考え方は持っていませんでした。「まず、アメリカと日本の文化の程度を比較すべきだ。もし、かの国が優れているのなら、日本は謙虚にそういう程度の高い文化を受容すべきである。そして国力を充実して、撃つべき時には撃つべきだ」と考えていました。
しかし、結局のところ松陰のみたところでは、長州藩にも日本にも人材がいないということでありました。従って彼が松本村の松下村塾に託したのは、「共に学んで共に向上し、長州藩政や日本国政を担える様な人材をまず生もう。その人材たちによって創られる新しい政治体制や、社会状況の中からこそ新しい日本の高い文化が生まれてくるはずだ」と考えたのです。
「ここで学ぶ者は、単に松本村の地域的な向上を図るだけではない。長州藩全体の、そして日本国全体の向上を図れるような人材を育成し、そういう人々によって創られるひとつの模範的な地域を実現することだ」と考えていました。松下村塾はまさしくそういう理念を凝縮した教場でありました。
この理念があったからこそ、彼の一年数ヶ月にしか過ぎなかった教育が、後に明治維新を招来し、国家を担うに足るような人材を、この小さな村の小さな学塾から多く出すゆえんになったのです。ここで学んだ弟子たちが、その後日本国家を担う高級官僚にのし上がって行きましたが、果たして彼らが最後までこの吉田松陰の理念を、日本国という規模において実現したのかどうかは、今となっては疑問であります。
【明治維新を象徴する一枚の絵について】
ある時、松下村塾のある門人が一枚の絵を描きました。暴れ牛と、藩の政事堂に端座している人物と、一本の棒きれの3点でありました。これをみた若き日の山県有朋(やまがたありとも・日本陸軍の創設者・総理大臣)が、「この絵は何を描いたのだ?」と聞くと、描いた者はこう答えました。
「暴れ牛は高杉晋作だ。政事堂に座っているのは久坂玄瑞(くさかげんずい・晋作とともに松下村塾の四天王と言われる・妻は松陰の妹)だ。そしてただの棒きれはおまえだ(山県有朋)」と。この時代、絵を描いた門人からみれば、山県有朋は単なる棒きれとしか思われていなかったのです。
同じく松下村塾に学んでいた伊藤博文も、吉田松陰からは、「おまえは学問よりも、周旋(しゅうせん)(外交で仲をとりもち世話をすること・斡旋)の方が向いている」と言われています。口が達者だったからということでしょう。
事実、伊藤博文は松陰のいう通りになりました。日本初の総理大臣になっています。そうみてくると、松陰が心を託していた一級の弟子たちは、みんな明治維新前に死んでしまったということになります。明治国家を担ったのは、松陰のいう周旋(しゅうせん)の技に巧みな者や棒きれでしかなかったのです。
そのへんに、明治国家のある意味での不幸な要因が含まれているのでしょう。俗な言葉を使えば、松下村塾における一流の門人たちは早死にし、三流四流の弟子たちが生き残って明治国家を創ったといっても過言ではないでしょう。と作家の童門冬二氏は厳しい視点で文章に残しています。
(次回に続きます)
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2019/03/15(Fri)
松陰の言葉に「おおよそ人一日この世にあれば、一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。なんぞ一日の学問、一日の事業を励まざらんや」と残っております。この文は有名な言葉ですが、後でも出てまいります。
【松陰は牢の中でも、読書を欠かさない人でありました】
安政元年(1855年)3月28日、吉田松陰が牢番に呼びかけました。その前夜、松陰は金子重輔(かねこしげのすけ)と共に伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に乗り付け、ペリー提督らに密航を訴えました。しかし拒否されて、よく知られているように海外密航は失敗に終わり、牢に入れられたのです。牢の中で松陰いわく「一つお願いがあります。それは他でもないが、実は昨日、行李(こうり)が流されてしまった。それで手元に読み物がありません。恐れ入るが、何かお手元の書物を貸してもらえないだろうか」と。牢番はびっくりします。
「あなた方は大それた密航を企て、こうして捕まっているのです。何も檻(おり)の中で勉強しなくてもいいではありませんか。どっちみち重いおしおきになるのだから」と。すると松陰は、「ごもっともです。それは覚悟しておりますけれども、自分がおしおきになるまでは、まだ時間が多少あるでしょう。それまでは、やはり一日の仕事をしなければなりません。人間というものは、一日この世に生きておれば、一日の食物を食らい、一日の衣を着、一日の家に住む。それであるから、一日の学問、一日の事業を励んで、天地万物への御恩を報じなければなりません。この儀が納得できたなら、是非、本を貸してもらいたいが」と。
この言葉に感心して、牢番は吉田松陰に本を貸しました。すると松蔭は金子重輔と一緒にこれを読んでいましたが、そのゆったりとした様子は、やがて処刑に赴くようには全然見えませんでした。松蔭は牢の中で金子重輔に向かってこう言います。
「金子君、今日このときの読書こそ、本当の学問でありますぞ」牢に入って刑に処せられる前になっても、吉田松蔭は自己修養、勉強を止めなかったのです。無駄といえば無駄なのでしょうが、これは松陰の人格を表わす意味でも非常に重要なことではないかと思われるのです。
人間はどうせ死ぬものであります。いくら成長しても、最後には死んでしまうことに変わりはないのです。この「どうせ死ぬのだ」という分かりきった結論を前にして、どう考えるのか。松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとしたのですね。それが立派な生き方として称えられているのであります。
【高杉晋作は牢内の吉田松陰を気遣い、お世話を徹底して行います】
江戸伝馬町の牢に入れられていた吉田松陰を気遣い、何くれとなく世話をしたのが高杉晋作(1839年~1867年27歳没・奇兵隊の創設者・松下村塾の四天王と呼ばれる)でした。死を覚悟した松陰は、そんな晋作に対して何を伝えようとしたのでしょうか?
伝馬町の牢にいた吉田松陰を、言葉通り何くれとなく世話をしたのは高杉晋作です。晋作はなかなか機転がきいています。牢には牢名主というのがいて、これがいろいろなことを取り仕切る。牢名主に贈物を届けなかったり、機嫌を損じたりすると酷(ひど)い目に遭います。そこで晋作は自分から出掛けていって牢名主に賄賂を渡します。
「吉田先生のお世話をよろしくお願いいたします」と頼みます。松陰にも面会し、「必要なものは何でもお届けします。おっしゃってください。食物は大丈夫ですか?」などと親身になって心配します。江戸の牢にいた松陰にとって、高杉晋作が江戸にいて江戸藩邸にいてくれたことがどれだけ救いになったか分りません。
高杉晋作のきき込みによっても、吉田松陰の扱いは決して安心できるものではありませんでした。牢役人たちは、「吉田先生は自分から何か恐ろしい計画のことを話して、評定所の方々を恐れさせた。重い罰が下るようだ」という噂話をしていました。きき込んだ高杉晋作は心配でたまりません。まさかと思っていたことが実現しそうな気配にあったため、松陰の今後のことがとても気になっておりました。
(次回に続きます)
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2019/03/22(Fri)
【松陰が高杉晋作に、男子たるものの死に場所について語ります】師弟の最後のやり取りです。
ある日、高杉晋作は吉田松陰に面会した時に聞きました。「先生、男子たるものの死に場所についてお教えください」切羽詰まった問い掛けに松陰は澄んだ眼で晋作を見返した。こんな問い掛けをする晋作の気持ちがどういうものか、松陰にはピンとくるものがありました。それはすでに自分に対する刑罰が、かなり重いものであることを意味していました。松陰自身も、自分から老中の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を話したのですから、無事にすむとは思っていません。「いよいよくるか」そう思った松陰は、いつもにも増して丁寧に晋作の問いに答えます。
「男子たるものの死に場所についての、君の問いにはこういう答え方をしよう。もちろん死は人間の好むべきものではない。しかしだからといって憎むべきものではない。というのは、世の中に肉体は生きていても心の死んでいる者がたくさんいる。逆に肉体は滅んでも魂が生きている人間もいる。心が死んでいたのでは肉体が生きていても何の意味もない。才能や志のある者が一時の恥をしのんで生き、大事業をするというのは大切なことなのだ。
私欲や私心のない者が、脇からみれば、むざむざと生をむさぼっているようにみえても、それはのちに必ず大事業をなすためなのだから、決して非難すべきではない。死んで不朽になる(いつまでも残る)見通しがあるのならば、いつでも死ぬべきだろうが、反対に生きていて大事業をなす見込があるのなら、いつまでも生きるべきである。だから生死というのは度外視すべき問題である」と。晋作には師の言うことがよく分った。晋作もまたこの答をきいて、「先生はすでに死を覚悟しておられる」と感じ取っていたのです。
【松陰と晋作の最後の別れ】
後日、高杉晋作に、「長州の萩へ戻れ」という命令が下りました。これが、安政6年(1859年)10月初旬のことであり同月17日、晋作は萩に向って旅立ちます。このことを告げに晋作は伝馬町の牢へいくと、吉田松陰はしみじみと言います。「このたびの私の災厄(さいやく)に、君が江戸にいてくれたのでどれだけ助かったか分らない。僕は大変幸せだった。君の好意に深く感謝します。急に国へ帰られると聞いて、本当に残念でならない」と。
ひと言ひと言が高杉晋作の胸に、それこそグッと迫るものを持っていました。かつて、東北の米沢藩主、上杉鷹山が、その師、細井平洲を米沢に迎えた時のことを、「一字一涙」という表現で示した碑文が現地に残されています。高杉晋作にとってこの時の師、吉田松陰の言葉はそのまま、「一言一涙」であったのです。
この時、松陰は晋作に、一人ひとりの弟子についてその勉強ぶりや、自分がいま心配していることなどを詳しく告げています。普通なら、すでに死を覚悟した師の立場であれば、おそらくすべての門人について褒め称え、「がんばってもらいたい」というような月並な言葉を残していくに違いありません。だが松陰は違っていました。
たとえば、「吉田栄太郎は周囲から志を放棄したと見られているから注意するように。また天野清三郎は才能を頼みすぎで勉強をしないから、学業が非常に劣っている」などと、至らない弟子たちに対する注意事項も与えています。いかにこの時になっても、松陰が冷静な心を失っていなかったかがよく分かります。
高杉晋作は萩に帰ってから、師の言葉を正確に同門の志士たちに伝えました。吉田松陰は安政6年(1859年)10月27日、死罪の宣告をされ、残念ながら伝馬町の牢獄内で首を落されるに至りました。維新の9年前のことであり、志なかばにして、明治国家を目にすることもなく残念無念ながらこの世を去っております。
松陰の遺骸は、その頃処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められます。国事犯なので遺体引き取りやお墓を立てることは許されませんでした。そこで4年後の文久3年(1863年)1月5日になって、京都朝廷が「いままでの国事犯を全部許す」という大赦(たいしゃ・恩赦のこと)令を出したのをきっかけに、高杉晋作は、久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちと一緒に、小塚原の刑場に行きます。そして白骨と化した師の遺体を掘り起し、若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬を致しました。これが現在の松陰神社であり、訪れる人が絶えないそうであります。
維新から現代まで約150年が経過していますが、どの様に時間の経過を判断すればよいのでしょうか?良い面、悪い面、変わってない点、変わった面、教育の本質とは何かなど、色々な気づきがあると思われますが、いかがなものでありましょうか?
(次回に続きます)
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2019/03/29(Fri)
【吉田松陰 名言集として】まとめてみました。ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。最後に致しますが、吉田松陰にちなんだ各種の名言を順不同で振り返りをしておきたいと思います。現代でも立派に通じるものです。何かのご参考になさって下さい。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」との言葉があります。夢の大切さを説いたものです。現代は夢が持ちにくいとか、夢をもっている人、夢を語る人が少ないと言われています。人生に夢があるのではなく、夢が人生をつくるのです。夢や志や目標(ビジョン)が人生を創造する根本だ、と松陰は自覚していたのですね。夢を描かなければ何事も叶う訳がありませんよね。
「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する」 昔も今もほとんど同じなのですね。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(論語)ということなのでしょうね。
小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。君子は表面ではなく、本質であり根幹である心や人格を恥じていたのですね。
志士たる者の貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。松陰は凄く古典を学び、古典の力は凄いものですね。徳の上で才の運用をすることです。私が常に口にしています、知行合一の教えと同じだと思われます。
志、定まれば、気盛んなり。同じ意味での「志は気の帥なり」(孟子)とも残っています。「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。とも言っています。私を捨てて公の精神の大事さを説いています。
大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによってのみ上手くいくのである。とも言っています。
至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。 (孟子)の言葉ですが、吉田松陰が好んだ言葉です。つまらぬ名言を費すよりも、至誠を積み蓄えなさいと言っています。
死して不朽(いつまでも残る)の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。 世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。
学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。たくさんの本を読むことで、名を残す立派な人となるのである。苦労を厭(いと)わずに努めることで天下国家の人々を幸せにできるのだ。学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。
失敗をしないことが素晴らしいのではない。失敗を改めることが素晴らしいのだ。
つまらない人が見るのは形である。立派な人が見るのは心である。自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。自分を正してから教えるならば、人はみんな従うもの。
どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているものである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。 (美点凝視ですね)
何事においても出来ないということはない。それは行動していないだけだ。(為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり) 上杉鷹山より 参考として。すべて可能思考でとらえています。実践や実行の大切さを説いています。先述の知行合一の教えと同じであります。
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